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病(やまい)と 詩(うた)【51】ー「 いのち」が私をするー(ケセラセラvol.97)

東京大学 名誉教授 大井玄

 

先日、都立松沢病院の認知症病棟で出口に向かって廊下を歩いていたら、年齢80代に見える女性が出口で心細げに立っている。挨拶し、彼女の名を訊ねると、微笑しているが答えられない。もとより病棟の外に出るのは許されない。彼女を廊下の出口の反対の窓際まで誘導して、別れた。
認知症でも自分の名前が出てこないほど言語能力が衰えるのは、相当進行しているのであって、通常、認知能力測定スケールで重度に落ちている方でも、自分の名前は言える。

100歳を過ぎ、自分の名も出なくなり、子供の顔も見分けられなくなった方がおられた。介護が良いせいか、穏やかに笑みを浮かべておられた。仏様のようだと感じたものである。

なぜ仏様なのか。それは、彼女には私たちが常に持っている、「私が、私が」というエゴイスティックな自我感覚がないように見えたからであろうか。唯識の深層心理学ではこの自我感覚をマナ識と呼んだ。

音速の単位マッハで知られる物理学者・哲学者のエルンスト・マッハは、その著『感覚の分析』で「自我」を次のように分析している。
「自我は記憶、気分、感情などの要素が比較的に強く結びつき意識に現れている要素あるいは感覚複合体である。」
とすれば、「私」という記憶が失われると、自我意識もなくなるのだろうか。しかし、寒暖や痛みを感じたり、腹が減った、のどが渇いたなどの感覚は残っているから、内臓感覚や五感を通じた快、不快は感じている。
100歳になり、自分や身近な他者を認知するのに必要な記憶を失った人は、もはや「誰それさん」でもなく、「私」でもないが、呼吸し、食事をし、排泄し、快不快を感じているから、一個の生命体、すなわち「いのち」であることには間違いがない。とすれば、自分を認知できなくなった状態は、「いのちが私をする」のを止めたからだといえよう。

この表現は不思議に聞こえるが、大童法慧老師によれば、ブッダの言葉だという。
どのような状況で、「いのち」が「私」をすることを止め
る現象が起こりうるのか。

 

若い人の場合、現在の「私」でいることが耐えがたく辛い場合に生じるように見える。
解離性人格障害あるいは俗に多重人格と呼ばれる現象は、その人が精神的肉体的に耐えがたい苦痛を経験した後
に生じるという。そのもっとも有名な例はダニエル・キースが書いた「24人のビリー・ミリガン」だろう。
ビリーが子供のときに実父が自殺する。母が再婚した男はビリーを逆さづりにしていじめ、たびたび性的に虐待する。そればかりかビリーは母親がその男によって虐待されているのをも目撃する。
成人した彼は、強姦さらに強盗事件をも起こすが、逮捕・裁判されるうちに、他の人格23人がビリーの中に住んでいることが判る。一つの人格は他の人格が行うことは知らない。今の「私」は、他の「私」とは別に生きているのである。
とすれば、ビリーが生きているという表現はきわめて不完全だ、としか言いようがない。より納得のいくのは、「いのち」がビリーの一つ一つの別人格をしている、という表現だろう。
なぜこのような現象が起こりうるのか。
すぐ心に浮かぶ常識的な説明は、別人格は、耐えがたく辛い現在の状況からの逃避だというものだろう。あるいは、その状況の辛さを感じない別人格に変化し、その状況へ適応したとも考えられよう。
つまり、「いのち」は、苦痛な意識あるいは感覚で溢れた一つの人格から、その苦痛のない別人格へ変わることにより、自分の置かれた厳しい状況に適応したのである。

 

物事を認知する能力は、歩いたり、走ったり、ものを持つ身体能力とならんで、生存を続けるのに不可欠である。それは、約600万年前、草原においてヒトが二足歩行し、狩猟採集で生活し始めた時から一貫して生きるための必要条件であった。
山の陰に傷ついて歩けなくなったマンモスがいるとか、森の日の沈む方向の端に熟した実のなっているイチジクの大木があるという、仲間に伝えるべき情報は、食物や場所や時について認知されることが前提である。
つまり、認知能力は、ヒトの生存の基本をなすはたらきであり、これを失うことは、相互扶助がなされない状況では直ちに死を意味した。

 

「人生100年」といわれる超高齢社会となり、高齢者の大多数が認知能力低下を示している状況では、「認知症」と呼ばれる認知能力低下は、異常な、病的表現とは見なしがたい。誰でもがそうなる意味で、加齢に伴う正常な「表現型」である。認知「症」というよりも認知「障」と呼ぶのがふさわしい。

では「いのち」は、老病死という経過の最終段階において、どのような適応を示しているのか。
まず「私」という感覚が薄れていくことにより、「私が死ぬ、私は死なねばならぬ」という自我意識に伴う実存的不安が薄れよう。壮年期に亡くなる方たちと対照的である。
次いで、がんによる疼痛が驚くほど軽くなるのは、終末期医療にかかわる医療者が一致して認めることである。日本人の3人に1人はがんで死ぬ。
都立松沢病院で1993年から2004年に至る10年間、外科的治療を受けた134人のがん患者(認知症50人、非認知症84人)の観察にもそれがあらわれている(1)。
がんが見つかる経緯を調べると、非認知症患者では大部分(63%)が何かの異常を感じて医療機関を訪れている。ところが認知症患者では老人健診で偶然ひどい貧血が見つかったり、突然、吐血や下血するなど誰が見ても大変だとわかる徴候が現れて治療を受ける場合がほとんどである(92%)。
がん疼痛の訴えは、非認知症患者では76%があったのに、認知症患者では22%にとどまった。
当然、鎮痛剤の使用にも、この違いは反映してくる。ステージが進むと、非認知症患者では41
%が麻薬の使用が必要になるのに対し、認知症患者ではただ1例(2%)であった。

 

今後、高齢者が在宅あるいは医療機関以外の施設で亡くなる割合が増えると予想される。麻薬使用を必要としないがんを持つ認知症高齢者の増加は、麻薬投与を拒否する施設での看取りをも増やすだろう。
認知能力低下により死の恐怖がなくなり、がん疼痛がなくなるとすれば、それは人生の終末への適応と見なせよう。
生存という視点からは絶望せざるを得ない状況において、「いのち」は、絶望や苦痛を経験することのない「私」をするのである。

 

文献
(1) Iritani S. et al “Impact of Dementia on Cancer Discovery and Pain” Psychogeriatrics 2011;11: 6-13

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