フクロウblog | 不安・うつのちから29 前篇

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不安・うつのちから29 前篇

こんにちは。毎日暑い日が続いていますね。もうしばらくこの暑さが続くようですが、節電も意識しつつ、きちんと体調管理もして夏を乗り越えていきましょうね!

本日のフクロウblogですが、和楽会発行の季刊誌「ケセラセラ」で毎号掲載しております、横浜クリニック山田先生のコラムをご紹介したいと思います。

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不安・うつの力29

国立がんセンター名誉総長 垣添忠生先生の場合

国立がんセンター名誉総長の垣添忠生先生は1941年大阪生まれの現在71歳。他に財団法人日本対がん協会会長、財団法人がん研究振興財団理事など、がんの臨床・研究の日本の第一人者としての要職にある。その人生は直情実行型で、常識や偏見に囚われず、自身の感性を信じ、出会いを大切にし、やりたいと思った事をやり続け、真っ直ぐに人生を進んで行った。その人生は痛快で一遍の活劇を見るようだった。?

「幼少時代の記憶をたぐりよせると、そこには常に『飢え』の影がまとわりついてくる。

1941年、私は四人兄弟の三番目として大阪に生まれた。銀行に勤めていた父が、大阪の支店に勤務しているときだった。

その年の終わりに太平洋戦争が始まり、私たちは両親の故郷である、岐阜の飛騨古川に疎開した。」(p14

すなわち垣添先生は戦前派である。敗戦後の食料の無い時代に、少年時代を送ることになる。先生は自分のことを「野性児」だったと書いている。しかし生物、生命、自然の中で「野性児」として育った事が、生物・生命に強い関心を持ち、医師の道へ進む動機にもなって行った。

「私の場合は、生き物への興味が(医師への*)入口になった。それを目覚めさせてくれたのが、大阪での『野性児』時代である。

疎開先から戻った私たち家族は、生駒山脈の信貴山のふもと近く、八尾市の服部川にあった、父の銀行の社宅に落ち着いた。」(p19)(*:筆者による追加注)

「ヒツジグサの浮く池の水面を上から眺めていると、カメがひょっこり顔を出し、蝶が優雅に舞っている。自然界の営みは、見ているだけで退屈しなかった。

あるとき、松の枝先から飛び降りたカマキリが、ヒツジグサの上にとまっていたギンヤンマを二本の足でガシッと捕らえた。その瞬間、ヒツジグサの葉の下から巨大な食用ガエルが現れ、カマキリをギンヤンマもろとも丸飲みした。カエルはすぐに水中に姿を消し、水面は何もなかったかのように静まりかえった。きらめく夏の陽光の下、一瞬の出来事はまるで白昼夢を見ているようだった。」(p19-20

志賀直哉張りの生命の営みの描写である。

「だが、楽しい日々はそう長くは続かなかった。小学二年生の時、父が東京に転勤することになった。自然に囲まれて育った野性児が、突然、都会の小学校に放り込まれたのである。」(p21)当然、生徒からだけでなく教師からも笑い者としてからかわれ、いじめられ続けた。何とか悲惨な小学校生活を卒業するも、第一志望の中学受験に失敗し、知人の紹介で桐朋学園中学に入学した。そこの同級生に異才の作家嵐山光三郎がいて、当時は不良中学生だったが友人となった。桐朋高校を卒業するも一浪して東京大学理科二類に合格し、念願の医学部に進学した。部活は「その格好よさに魅せられて」(p30)空手部に入部した。当時、学生運動が盛んで、正義感や仲間意識の強かった先生はその運動団体の青年医師連合(青医連)に参加し、様々な改革運動に加わり、卒業試験もボイコットした。

「私は腹をくくり、デモにも積極的に参加した。学外のデモでは、機動隊の盾で足を強打され、激しい痛みをこらえながら行進を続けたこともあった。

時代の空気は、『今、闘わなければ』という気迫で充満していた。私は党派には所属しないノンポリだったが、純粋に正義感から闘争にのめりこんでいった。」(p36)この闘争の結果インターン制度が廃止になった。

「卒業後、私は本来なら東大付属病院で研修するはずだった。しかし大学闘争の最中、研修はストライキでたびたび中断された。」(p38)結局、「杉並の実家の近くにあった、今はなきE病院にもアルバイトに行った。そこに入院していたのが妻である。」(p38)患者さんとの恋愛はタブーである。しかし、先生はそんな偏見にはとらわれず、好意を持った女性に対してはストレートにその事を告白した。「彼女は関節炎の治療をしていた。」(p38)「まもなく彼女は退院し、私は週に一度病院の車で往診することになった。」(p39)「数回会ったところで、何かビビッと来るものが体中を駆け抜けた。」(p40)「『結婚するならこういう人がいいんじゃないか』と思っていたのが、ひと月もたたないうちに、『結婚するならこの人しかあり得ない』と確信するようになった。」(p40

「彼女と私は、波長が完全に一致していた。結婚して四十年、いっときも変わらず仲良く過ごしてこられたのも、そのためだと思っている。

結婚相手を見つけた私は、迷うことはなかった。しかし前途はあまりにも多難だった。」(p41