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不安・うつのちから29 後篇

本日のフクロウblogでは、前回ご紹介いたしました山田先生のコラムの続きをお楽しみください。

「私は、医学部を卒業してまもない二十六歳。」(p44)「事は、そう簡単に運ばなかった。なぜなら、彼女が三十八歳の既婚者だったからである。子供はおらず、十数年暮らした夫とは、既に別居していた。でも、まだ離婚は正式に成立していなかった。また彼女は病弱であった。この事も世間一般では結婚の妨げとなるだろう。年齢と病弱である事を考えると、子供は望めない可能性が高い。」(p44

実際子供は生まれなかった。病弱で、膠原病が生涯続き、左肺がん、甲状腺がん、右肺がんとなりこれが全身に転移し末期となっていった。

両親はこの結婚話に猛烈に反対した。母親に「あなたがその人と結婚するなら、私は自殺します。」とまで言われてしまったが、先生も先生で「そんなことなら自殺してくれと開き直るしかなかった。」(p47)兄達もこの結婚話に反対し「孤立無援、四面楚歌」(p47)となった。

「いてもたってもいられなくなり、私は傘を一本つかんで家を飛び出した。向かったのは彼女の家である。身ひとつ、でなくて傘一本で彼女の家に転がり込み、その日から一緒に暮らし始めた。」以来40年、子供は生まれなかったが、幸せな夫婦の生活が続いた。二人はいつも一緒だった。都立豊島病院泌尿器科医師に採用され、研究が評価され、国立がんセンターの研究員となった。上司は杉村隆先生で非常に厳しい指導を受けた。しかしその指導にも耐え、一流のがん研究者となり、50歳で国立がんセンターの総長にまで上りつめた。その陰にいつも妻昭子さんの様々な支えがあった。国際学会へ行く時もいつも昭子さんが寄り添い、先生もそれを望んだ。結婚式も挙げない駆け落ち結婚だったが、最後まで恋人のような夫婦生活だった。

これ以上ない幸せな日々に突然、その幸せを引き裂く出来事が起きたのである。左肺がん、甲状腺がン、右肺がんはそれぞれ治療によって克服したが、20072月、右肺に新しい小細胞がんが見つかり懸命な化学療法が行われたが、今回は全身に転移し末期がんとなってしまった。その事を昭子さんに伝えたが、質問することはなくまた取り乱すこともなく、静かにその現実を受け止めた。国立がんセンターに入院し、先生自身が最後まで一人で介護し続けた。20071228日昭子さんの強い希望で年末年始を自宅で過ごす事になった。28日は好物のアラ鍋を先生が作り美味しく食べた。これが最後の晩餐となった。30日様態が急激に悪化し意識レベルが低下し、31日には苦悶様呼吸となっていった。先生は必死に看病した。

「そのときだった。ずっと意識の無かった妻が、突然身をおこそうとした。

まぶたがパッと開き、目配せするように私の顔を見る。思いもよらぬ強い力が、私の手をつかんだ。そして全身の力をふりしぼるように、私の手を強く握った。

『ありがとう』妻の声にならない声が聞こえた。

『昭子、昭子!』

私が握り返した直後、妻の手からガクッと力が抜けた。妻の頭は力なく枕に沈み、まぶたは再び閉じられた。午後六時十五分、妻の目は二度と開くことはなかった。」(p9-10

壮絶でスピリチュアルな最期だった。

葬儀社に依頼し、棺に遺体を入れそのままお正月を過ごし、昭子さんの元からの希望で葬儀はせず、そのまま先生が火葬場へ運び荼毘に伏した。遺骨を自宅に引き取ると同時に、先生は深いうつ状態に落ちて行った。

酒浸りの日々になっていった。「しかし、うつ状態になっていた私には、この酒がちっともうまくなかった。というより味がしない。ただ辛い気分を麻痺させるために杯を重ねた。」(p122

「酔えば酔うほど妻のことが頭に浮かんでくる。

いや妻のことしか浮かんでこなかった。陰陰滅滅とした酒はよくないとわかって居ても、やめられなかった。毎晩、一人で相当な量を飲んだ。

朝起きて新聞を開いても読む気がしない。」「出勤するとき、玄関で妻の靴がチラッと目に入ると涙が噴き出してくる。」「妻といっしょに何度となく通った道に差し掛かると、思い出とともに涙が止まらなかった。

食欲は全くなく、酒とちょっとしたつまみを口にするだけだったから、体重はどんどん減っていった。

ベッドに入っても睡眠剤がないと眠れない。」(p123

「静寂に包まれた家の中に一人でじっと座っていると、背中からひしひしと寂しさが忍び寄ってきて、身をよじるほど苦しかった。」(p125

「この苦しみを一人で耐え、一人で生きていくしかないと思った。『もう生きていても仕方がないな』何度、こう思ったかしれない。」(p126

先生は3か月間、地獄のようなうつ状態に耐え抜いた。3か月を過ぎた頃から徐々に回復し、百か日の法要をする頃には何とかその死を受け入れ、昭子さんの気持ちを考え、実家のお墓に納骨した。世間の様々な常識に捉われず、自分たちの気持ちに正直に生き抜いた人生だった。先生はその後立ち直り、自身の辛かった体験を基に、グリーフケアの啓蒙書を発刊したり、同じ体験の人達のサポート活動にも従事するようになった。愛する人の喪失体験は、苦しいうつ状態をまねくが、うつを耐え抜くことで、一人で生きていく力を醸成もした。正に『うつの力』である。

(下垣添忠生著『妻を看取る日―国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録―』新潮社、2009

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