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病(やまい)と詩(うた)ーウィリアム・S・クラーク先生(5)ー(ケセラセラvol.81)

東京大学 名誉教授 大井 玄

農科大学から洋上大学へ

クラークは1877年6月初めサンフランシスコに着き、観光や視察の後アマーストに帰ったのは7月末だった。その時マサチューセッツ農科大学は財政問題のため危機的状態にあった。
彼が日本に来る前すでに累積赤字は2万ドルに達していたが、いまや年間赤字は5千ドルにのぼり、手形の裏書きをした理事に返却すべき2万ドルもあった。教授の給料はボストンの高校や師範学校の校長給与を下回っていた。彼は、新聞による大学の誹謗と誤った報道があるかぎり、教育目的と手段を一般の人に理解してもらえないし、入学希望者は増えないと憤っている。

1978年から79年にかけてはクラークの農科大学での最後の学年度だが、大学の財政危機はいよいよ深刻になっていた。その大切な時期78年十月末に、彼は79年五月一日から80年九月一日までの休暇を理事会に申請している。その理由は、ある洋上大学の学長に奉職するというものだった。理事会は、「学長不在は大学の運営に支障をきたす」という当然と思われる理由でこれを却下した。

ところが十一月上旬、アマースト・レコード紙は、クラーク学長は洋上大学の学長となり世界一周航海に出る間、農科大学を留守にすること、さらに洋上大学の立案企画の実業家ジェイムス・ウッドラフが「まことに高額な報酬についての細目を取り決めるため」アマーストに来た旨を報じている。また休暇申請を断られたクラークはほどなくして辞表を提出し、翌年一月理事会はそれを受理した。その決議文には「十二年間学長の職にあったウィリアム・エス・クラーク大佐が、この度さらに好ましく願わしい地位を求め学長の職を辞されたゆえに(中略)受理した」とあるが、その裏には新聞論調が好意的でなかった事情もある。新聞が敵対的であるのは、州立の高等教育機関としてはその存亡にかかわることだった。

クラークは日本滞在中、この国では無責任な新聞に煩わされなくて良い旨の手紙を妻に書いているが、当時、ボストン・グローブ紙に、大学から支給される俸給と日本から支給される俸給の金額のことで、匿名の攻撃的手紙が載り、これをアマースト・レコード新聞が転載している。

しかし、そのような誹謗と比較にならない激しい批判が別方面からもやってきた。1878年十一月二十六日ボストンでマサチューセッツ農科大学同窓会の臨時総会が開かれ、五名からなる委員会を設け、大学運営に関する検討を行い、理事会にその評価と提言を行うことを決議した。
同委員会は1879年一月十三日、クラークの辞表が受理された数日後、大学理事会に評価報告と勧告を提出しているが、それは彼の大学運営、教育方針に対する痛烈な批判であった。
勧告の第一は財政問題の処理についてであり、問題の原因は「管理運営の失態」にあるとし、「本教育機関は現在の予算内で運営が可能であり、また、当然そうすべきである」と結論している。これに基づき、学長の俸給は現在経常費の三分の一に当たっているが、それを約半分に減らすこと、「精神道徳論」の講義を廃止すること、学外講師担当の科目を廃止することなど六項目の提言を行っている。

教育課程についても、農業の技術専門学校として特化すべきだと勧告している。農業と機械技術を教えるとしても、マサチューセッツ農科大学が基本的には一般教育の大学であるべきだ、とのクラークの教育理念を、これは真っ向から否定するものだった。

クラークはこれに対し、長文の手紙で激しく反論した。それを掲載したアマースト・レコード紙の論説は、十一月二十六日の同窓会臨時総会には、150名の同窓生のうち僅か20名しか出席せず、そこで報告書作成の決議をしたのだから、そもそも
同窓会全体の意志を代表するものではない、と指摘している。

洋上大学の世界周遊航路には、日本やヨーロッパも含まれており、クラークにとって、さぞかし魅力があったろう。しかしこの企画は応募者が目標数に達しなかったことで、1879年五月八日クラークの正式な大学退職のわずか七日後、中止する旨の発表がニューヨーク・タイムズ紙に載った。またその後、立案・出資者のウッドラフが急死するという悲劇もあり、洋上大学の夢は潰えた。

 

クラーク・ボスウェル会社

クラーク自身もこののち急坂を転げ落ちるような、あっけない失敗によってその活動的な生涯に幕を下ろすことになる。
1881年三月、ウォール街の一角に発足した会社は鉱山を管理経営し、鉱山株の売買を扱うものであった。この会社は、シニアな共同経営者たるクラークに束の間相当の大金をつかませ、多くの投資家に「金ぴか時代」の夢をいだかせたが、設立後十五か月もたたぬうちに破産した。

彼は、学生のころから地質学に興味を持ち、鉱物の発掘で学資の一部を賄った。しかも金儲けの野心があるのだから、鉱山関係の投機事業に手を出すのに心理的必然性があったのかもしれない。日本からの帰途、カリフォルニアの鉱山を見て回り大いに感ずるところもあった。

しかし、彼は学者教師としては優れていたが、大学の財政破綻にみられるように、金銭的経営管理の能力はなかった。そういう人間が事業を成功させるためには、堅実に経理責任を負える信頼できるパートナーの存在が必要条件になる。しかしクラークはジョン・ボスウェルといういかさま師と手を組んだ。学者馬鹿といわれてもしょうがない。また一攫千金の野心を抱いていたとすれば、目が見えると錯覚した盲目者である。

ボスウェルはアイオワ州出身で、南北戦争後1870年コロラド準州で補給部中尉として勤務していたが、軍法会議で有罪判決を受けた。政府への支払請求書偽造と国家の金を背任横領し、さらに紳士としてあるまじき行為を行ったことが問われた。罷免されただけでなく、その氏名、住所、刑が広く公表された。その後地方新聞に勤めたりしたのち、1871年シカゴに移りシカゴ・タイムズの記者をしていた時、賭博に手をだした。その賭博が発覚し、新聞社を首になった。その後シカゴからセントルイス、ボルチモアなどを転々とした挙句、ニューヨーク市に落ち着き、鉱山関係の「日刊鉱業新聞」を発行する。同紙を愛読したクラークは、彼の前歴を知らず、彼をウォール街での案内役として利用価値があると思ったのだろう。

1880年秋、クラークが社長、ボスウェルが総務担当責任者としてスターグローヴ銀山会社を設立し、十一月、会社の定款を各方面に配布した。それによると資本金は200万ドル、額面価格10ドルの株を20万株発行する。ネバダ州にある鉱山は推定埋蔵量が50万ドル以上あり、これが配当金に当てられる。毎月2万ドルの配当金が確保され、年12パーセントの利益が見込まれる。社長クラークは「マサチューセッツで長年大学学長をはじめ、責任と信用のある公的地位を歴任してきた紳士」と紹介され、彼が将来「会社全般を自ら管理し、地味な投資家に着実な利益をもたらすべく経営する方針」だという。配当の最初の支払いは十一月末日の予定である。年末、彼はアマーストに帰り、鉱山の銀でつくった文鎮を見せて歩いた。

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