気まぐれ「うつ病」

誤解される非定型うつ病

出版日:2007年7月10日

著者:貝谷 久宣

発行所:筑摩書房

 定価:680円+税

はじめに

 まず、最近よく経験するうつ病の症例を紹介いたしましょう。

Aさん(男性)は35歳のシステム・エンジニアです。最近気力がなくて仕事に熱が入らないし、すごく疲れやすいので、Aさんの勤める会社のビルにある内科を受診しました。診察の結果、内科的には何も異常なことはないのでうつ病でしょうと言われ、副作用が少ないと言われている選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)を処方されました。一週間してもあまり良くならず、それどころか薬を飲むようになってからますますやる気がなく、オフィスにいても眠気が強くて仕事になりません。同じ内科に再度訪問し、現状を訴えたところ、SSRIの効果が出てくるのは少し時間がかかるということで、薬を増量され二週間様子を見るように言われました。

 その後、気力はまったく回復せず、前夜ぐっすり眠っているのに朝から眠い日が多くなってしまいました。2週間目にどうにもならなくて、心療内科に行きました。Aさんは心療内科医に、上司が次々に仕事を命じてくること、今の自分ではその仕事がとてもこなせないと上司に訴えたこと、上司に反対に精神力が足らないと叱責されたこと、現在は上司の顔を見るのも嫌であること、を話しました。その心療内科医の診断は、オーバーワークによる疲弊性うつ病でした。そして、うつ病には休養が最も大切であるから、さしあたり1ヵ月休職をするように診断書を書いてくれました。自分では会社を休むほどではないと思いながらも、医師の強い勧めで1ヵ月の休養をとりました。この間にも症状の回復の兆しはなく、体重が3キログラムも増えてしまいました。これでは病気は良くならないとAさんは考え、うつ病専門の精神科医の門をたたきました。ここでAさんは聞きなれない診断名を言われました。

 それは“非定型うつ病”でした。

 このような事例に最近遭遇することが多く、本書の直接の執筆動機もここから来ています。「非定型うつ病」の存在は専門医の間でも充分に知られているとは言えません。非定型うつ病の先進国の欧米でさえ、メランコリー型うつ病を正しく診断する医師の割合が74%であるのに対して、非定型うつ病を診断できた医師は34%に過ぎないのです。うつ病による「自殺」の増加が問題になっている時世で、従来から喧伝されているうつ病すなわち「メランコリー型うつ病」については多くの解説書があり、この知識はかなり普及してきていると思います。ところが、「メランコリー型うつ病」の知識で「非定型うつ病」を扱ってもなかなかうまくいきません。まず、非定型うつ病はメランコリー型うつ病ほど抗うつ薬が効きません。それと、療養の仕方が全く反対の場合もあるのです。

 また、非定型うつ病はうつ病とは異なった診断を受けていることが多いこともあります。次の事例(女性)はその典型例です。

 20歳の時、母に連れられて受診されました。時々意味もなく涙が出ることがあり、不安感と形容の仕様のない孤独感に襲われて、その気持ちを何とかしたいと思い、お酒を飲むそうです。すると、急に解放的な気分になって、タバコを二の腕に押しつけたり、リストカットをするということでした。母親は服飾専門学校を中退し、スナックに勤め、ほとんど家には寄り付かない長女を何とか堅気の生活に戻したいと連れてきたようです。中学生のときから、トビ職の父親が母親に暴力を振るうのをしばしば目にして、悲しい思いをしてきました。高校に入り、家庭を嫌い、同級生の家を泊まり歩きました。当時すでに過食や、リストカットがあったようです。二つ年下の弟とは仲が悪く時々つかみ合いのけんかをすることがありました。弟が彼女の顔かたちについて批評めいたことを言うと激しく反応し、大喧嘩になるのでした。高校3年の秋、女友達との間で小さないざこざがあってから、朝体が動かなくなり、学校に行けなくなりました。

 近くの心療内科の診察を受けたところ、境界性人格障害と診断されました。本人は性格異常だと言われてしまい、それからは医者嫌いになりました。診察の結果、夕方に頻発する抑うつ気分、人の言葉に過敏に反応する行動様式、過食、過眠、および体の異常な疲れが認められ、非定型うつ病の診断がなされました。そして、規則正しい服薬と生活態度、適度な運動が必要なことを告げ治療を始めました。はじめの3ヵ月で、夕暮れの抑うつ気分はほぼなくなりました。そうすると急に表情が良くなり、休まず仕事にいけるようになりました。半年後には、朝からレストランに勤めるようになりました。現在、まだ、激しい疲れや人間関係で悩むことは時にありますが、前向きに生きられるようになってきています。

 非定型うつ病は、境界性人格障害、心因反応、抑うつ神経症、ヒステリーなどいろいろな病名がつけられていることがあります。このような病名がつけられる症状を非定型うつ病が持つとがありますが、それはあくまでも非定型うつ病の辺縁部分の症状であり、そのような眼で見れば非定型うつ病という診断がつきますし、非定型うつ病の診断をして対応していくことがよりよい治療に結びつきます。この事例ように、非定型うつ病に別の診断名が下され、治療がうまく進んでいない事例にもよく出会います。

 1980年に米国で大掛かりに行われた疫学調査では非定型うつ病の生涯有病率(その時点ではなく一生涯のうちにかかる人の割合)は0.7%でしたが、1990年には3.8%と増加しておりました。わが国のうつ病の生涯有病率は10%前後だと言われています。最近の研究では、うつ病の半数近くは非定型うつ病であるとする報告がなされていますから、全国民の5%は一生涯の間に非定型うつ病にかかる可能性があることになります。非定型うつ病ははっきりと大うつ病または気分変調性障害と診断されない、やや軽症の人々にも非常に多い病型ですので、実数はその数倍に達する可能性があります。それにもかかわらず、日本の大部分の専門家はこの障害に充分な注意を向けていません。「うつ病学会」が設立され3年たち、研究報告・討議や一般への啓発活動が活発に行われていますが、「非定型うつ病」は残念ながらほとんど取り扱われていません。非定型うつ病に関する日本における研究論文の数も過去10年間に10編に達しているかどうかといった貧弱な状態です。

 筆者は、多くの人が悩む「非定型うつ病」が一般の人に広く知られるのみならず、専門家の注意を喚起し、研究が活発になり、この病気に悩む人が一刻も早く救われることを願って本書を上梓いたします。

目 次

非定型うつ病とは

うつ病の症状と診断

非定型うつ病のさまざまな事例

非定型うつ病とメランコリー型うつ病との違い

非定型うつ病と他の精神障害との関係

非定型うつ病の原因

治療法

療養と看護

非定型うつ病は増えているのか

不安・抑うつ疾患の発症土壌