不安・うつの力(])

― 作家 開高健の場合 ―

医療法人 和楽会 横浜クリニック院長

山田 和夫

昭和ヒトケタ生まれの人は不安障害を有し易い

 昭和ヒトケタ生まれの人は10代で終戦を迎えた。終戦により、天皇制から民主主義となり、価値観は180度転換し、10代の多感な青年たちの心は大きく揺れ動き、心の柱を喪失したような状態となり、多くの人々は、そのまま柱を持つことはなかった。必然的に人間の心を探り始める作家が多く排出しても不思議ではない。実際、多い。現在までの芥川賞作家、直木賞作家を、生まれ年ごとにまとめてみると表1・2のようになり、昭和ヒトケタ生まれの作家が断トツに多い。昭和元年に三島由紀夫が生まれていることは、象徴的である。大江健三郎は昭和10年生まれで、戦後民主主義をうたいあげることのできる世代といってもよい。昭和ヒトケタ生まれの作家の中で、開高健は躁うつ病を有し、神奈川県芽ヶ崎市で作家生活を送った。

 作家、開高健は、平成元年12月9日に食道癌で病死した。享年58歳の若さであった。エネルギッシュな行動や言動から、その早逝は意外な感もあるが、それだけ病的な命を超えるようなエネルギーであったとも言える。開高は、内因性の躁うつ病であったと考えられる。10代後半より58歳で死亡するまでの何度かのはっきりしたうつ病相と、5度の軽躁状態の時期があった。軽躁期には世界中を飛び回り、釣りをし、食し、飲み、放浪し、「もっと遠く!」「もっと広く!」「オーパ」「最後の晩餐」などの豊饒な文学に結実していった。「もっと遠く!」といった題名自体に、あり余るエネルギーが端的に表現されている。うつ病の体験をもとに「流亡記」「あかでみあ・めらんこりあ」「夏の闇」などの傑作小説が生まれている。

 開高健の小説は「うつ病文学」といっても良い。うつ病の世界は人間精神の一つの極北である。うつ病を体験することで人間性の深淵を見ることができる。これが「うつの力」である。日本の小説家はうつ病の体験者が多い。うつ病を体験することで悲哀に満ちた人生を情感豊かに表現することが可能である。

 開高健の小説の基本構造は、躁うつ的両極の感情を基本とした人間感情のアンビバレンスがモチーフとなっている。その手法は、19歳の時に書かれた最初の短編小説集「印象採集」にすでに顕著にあらわれている。些細なことから一つの秩序が崩れ、壮麗が醜悪に、倨倣が卑屈に、自恃が無恥に突然変貌するという構成で一貫している。「事物の二律背反性に対する抜き難い願望」という、躁うつに対する苦悩が述べられるが、その絶望の淵から「北の極から南の極へたえず揺れ動く人間の不安と矛盾を描く」という強い作家魂にもなっている。躁とうつという一見相反する自己を、矛盾としてでなく、統一した一つの自己としてとらえようとした。そうすることで、躁うつを正当なものとし、結果的に「どん底のどん底からコトバをつかんで浮揚してくる」といった作家活動における治療的側面があった。最終的には、躁もうつも相反して対峙するものではなく、めぐるもの「輪廻」としてとらえられ、さらには「空」といった東洋的境地が示現されている。

躁うつ病者は海と旅を愛する

 開高健は、大平洋を見渡せる湘南海岸に居を構えた。海を愛し、釣りを愛し、広大な大地を愛した。自殺したヘミングウェイと似ている。開高は「賢者は海を愛し、聖者は山を愛す」と述べている。これはちょうど「躁うつ者は海を愛し、統合失調者は山を愛す」と病跡学的には置き換えることもできる。

神奈川県の文学風土

 開高健は湘南の風土から文学を創造していったが、神奈川県には文学を生み出す特有な風土がある。神奈川県で代表的な作家が生まれ住んだ地域は、横浜、鎌倉、小田原、湘南、川崎、相模の6地域である。隣り合った6地域でありながら、その自然環境と文化的伝統には大きな違いがある。その違った風土で育った作家の表現形態は6つの地域それぞれに独特で、同じ地域の作家の表現形態は互いに交流がないにもかかわらず著しく類似したものがある。他都道府県で生まれ育った作家が神奈川県に移り住む場合も少なくなく、その際も不思議と類似の表現形態をとる地域に定着する。開高健も大阪で生まれ湘南の地に定着した。それは風土のかもし出す空間の存在の証しでもある。

国民的作家を生む横浜の風土

 横浜は明治以後にできた新しい都市であるが、その明治時代に何人かの作家が生まれ育っている。大仏次郎、獅子文六、吉川英治、長谷川伸、白井喬二等である。大仏と吉川はある時期、南太田小学校という同じ小学校で一緒に学んでいる。これらの名前が端的に示すように、横浜は国民的作家と呼ばれるような大衆小説家を生む風土である。大仏、獅子はハイカラな、吉川、長谷川は庶民的な大衆作家であり、それは横浜の風土の持つ二面性でもある。後に住んだ作家にも山本周五郎や五木寛之などの国民的作家がおり、横浜は国民的大衆作家が創作しやすい風土ということができる。

芸術至上主義的作家を生む小田原の風土

 小田原は鎌倉と並ぶ歴史ある地方都市である。小田原の風土の背景には、海、山に恵まれた豊かな自然と、鎌倉時代から続く城下町としての長い文化的伝統がある。東に曽我の丘陵、西に箱根の山々、その山間から流れ出る清洌な酒匂川と早川、それらの川が注ぐ小田原海岸と相模湾。それらの豊かで美しい自然が人間的感性を育んできた。歴史的には、とくに文化文政時代の藩主であった大久保忠真は老中の要職までのぼり、藩校集成館を創設し、大いに学問文芸を奨励し、多数の文化人を排出する伝統を作った。しかし、明治維新になって小田原藩は幕府方にあったため冷遇され、豊かな文化的感性に大きな心的外傷を与えた。それが、明治になって小田原独特の作家を生む風土的背景となった。明治元年に、北村透谷が小田原市唐人町で生まれたのは象徴的である。透谷は、深い精神性と浪漫性に満ちた著作の数々を著し、近代日本文学の扉を開いた。辻村伊作は、山と高山植物にかけた純粋な詩魂を珠玉の紀行文として残した。福田正夫、井上康文らは、詩誌「民衆」を創刊し、民衆詩運動の担い手となった。昭和には牧野信一。尾崎一雄、川崎長大郎、北原武夫らが出、芸術至上主義的私小説の境地を開いていった。横浜が国民的大衆小説を生んだ風土であるのに対し、小田原は芸術至上主義的私小説を生む風土と言うことができる。東京とは一線を画した、孤高の情熱を持った作家たちを輩出していった。中で、北村透谷と牧野信一は若くして自死している。北村は感情障害圏、牧野は分裂病圏の作家であったと考えられる。このような視点で、ほかの4地域も眺めることができる。作家たちが同じ作家になりながらも、生育した風土によってその表現形態、手法がある必然性をもって異なってくることは興味深い事実である。精神性や創造性には時代と風土が大きく関与している。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.50 2007 AUTUMN