不安・うつの力(]U)

宮沢賢治の場合 ―

医療法人 和楽会 横浜クリニック院長

山田 和夫

 宮沢賢治は躁うつ病があった人です。躁うつ病の人は、いろいろな夢を持ったり、理想を追い求めたり、情熱的で行動的になる事がしばしばあります。宮沢賢治は将にそのような人で、躁うつ病があったからこそ、求道的に理想を求めて詩人・童話作家をはじめ多彩な活動が出来た訳です。宮沢賢治は一つの呼称では納まり切らない人です。人類全体だけでなく、生命全体、更には宇宙全体の幸せを希求し続けた人です。この壮大な発想こそ、躁うつ病者の発想ですが、また躁うつ病者にしか生じることの出来ない発想です。壮大な夢に押し潰される場合もありますが、賢治はそれらの夢の実現のため、全ての人生の時間を捧げました。その夢は、芸術、科学、宗教などの多方面からの活動を通す事によって達成する事が出来ました。将に神業的行為です。これらの活動は自分のため、栄誉のために行われたのではなく、純粋に人類、生命のために行われました。躁うつ病の人は時に神に近い存在になる事があります。宮沢賢治もその一人です。賢治は、詩人、童話作家、農業技術者、地学者、宗教者として情熱を持って普及活動を続け、37歳という短い人生の中で多くの業績を成し遂げました。東北の一角、岩手をイーハトーヴと呼び、ここに宇宙的メルヘンの世界を詩や童話を通して築き上げました。神の使者のように、人間の有るべき道を判り易く説きました。「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない。」と説き、実践しました。

 宮沢賢治は1896(明治29)年8月27日、岩手県花巻川口町に生まれている。家業は質屋・古着商で地元では裕福な家だった。1907(明治42)年岩手県立盛岡中学に入学。寄宿舎に入り、野山を歩いては、植物や鉱石の採集に熱中する。盛岡高等農林・農芸化学科を卒業後、地質土壌肥料の研究技師になり、後には花巻郊外で自炊・開墾の生活を始める。羅須地人協会を作り、農業の技術指導に努め、農民芸術を語る献身的な生活を行う。一方盛岡高等農林在学中から熱心な日蓮宗信者となり生涯信仰の生活を送った。農業指導の体験、陸中の高原地帯の地形にイーハトーヴという夢幻の世界を空想し、「グスコーブドリの伝記」「銀河鉄道の夜」などの自伝的・幻想的童話を書いた。あくまでも土着に徹し、民話や風土に取材しながらも、その地方や人にエスペラント語をつけるような国際性を持っていた。夢追い人で生活力は乏しく、結婚もしなかったが、農民の生活の向上に情熱を注ぎ込んだ。

 賢治は多方面に渡る献身的な活動を精力的に行ったため、時に疲弊してうつ状態を呈した。最愛の妹トシが肺結核となった際も献身的な看病をした。一旦は回復したが、実家で最期の時を迎えた。大正11年11月27日の未明であった。喘ぎ苦しみながらも、最期は蝋燭の火が消えていくような静かな死であった。死後深いうつ状態を呈したが「永訣の朝」という詩を書くことで悲しみから「訣別」し立ち直っていこうとした。

 この詩を書き写していて賢治の詩作の意図を感じた。切々とした悲しみは感情のままひらがなで、臨終のトシの言葉は括弧内に甘えるような花巻の方言で、象徴的な物は漢字で表現して賢治の深い世界観が表出しているそして題は「永訣」という決然として死を受容する理知的な表現となり、賢治の深い悲しみを言語化し、賢治から切り離し詩の中に封印してしまっている。詩を読む読者は読む度にその封印が解かれ、一気に賢治とトシの深い悲しみの交流の中にタイムスリップしてしまい切々とした悲しみの状況を目の当たりにしてしまう。シャーベット状になった、霙の白さ冷たさが、熱で苦しんでいるトシの口内を冷たく甘く冷やしてくれる事が甘美な表現ともなり、皆の救いになっている。詩は凄い。一気に人と人の情感、魂と魂を繋いでしまう躁うつ病は感情障害であるが、大きな感情のうねりを作り出し、初めて詩の中に生き生きとした息吹を吹き込んでしまう。これも感情障害の大きな力である。賢治はこれらの作品を「心象スケッチ」と呼び、スケッチのように多作し名作「春と修羅」という詩集が出来あがった。「春と修羅」自体、一つの喪失の悲しみから立ちあがるグリーフワークでもあった。賢治も、トシが亡くなった11年後1933年(昭和8年)9月21日、同じ肺結核で花巻の自宅で急死した。享年37歳であった。しかし残されたたくさんの詩と童話によって賢治ワールドとも言うべき世界を花巻に確固として作り上げてしまった。これも躁うつ病の力である。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.52 2008 SPRING