不安・うつの力(]X)

― 倉嶋 厚さんの場合 ―

医療法人 和楽会 横浜クリニック院長

山田 和夫

 平成20年12月24日午後、東京駅前の八重洲富士屋ホテルでNHKの初代ニュースキャスターの宮崎緑さんと『社会不安障害』について対談しました。この対談は本年1月24日(土)の朝日新聞朝刊の一面記事として出ますので、宜しかったら是非読んで下さい。帰り際に、「丁度4年前、この同じ場所で倉嶋厚さんと対談したんですよ。」と宮崎さんに話しました。「奥さんが亡くなられて、うつになられて、私が最初の治療者だったんです。」すぐに「今は元気になられて。優しくてとても良い人でしたから。ああいう方がうつになるんですね。私(宮崎)あの方と誕生日が同じなんです。1月。年は何十年と違いますが。」と話されてお別れしました。そうなんです。ちょうど4年前『うつ病』について同じホテルで倉嶋さんと対談したんです。

 倉嶋厚さんは宮崎緑さんと同じ「NHKニュースセンター9」の初代お天気キャスターとして活躍された方です。穏やかで親しみ易く、明るく、ユーモアがあり、宮崎さん同様に瞬く間にお茶の間の人気者になりました。その倉嶋さんが、1997年6月に奥さんの恭子さんを胆管細胞ガンで亡くされた後、急激にひどいうつ状態になられ、食事も殆ど摂れなくなり体重も一気に16kg減りげっそりした状態になられ、私の所へ来られたのです。当時私は横浜市立大学医学部附
属浦舟病院におりました。住んでおられた目白からわざわざ御出で頂きました。顔はやつれていましたが、声はテレビの時のままでしっかりされていました。おそらく気を張っていたんだと思います。この体験を、その後『やまない雨はない―妻の死、うつ病、それから…』(文春文庫、2004)という本に纏められています。この本の中で、当時の事は次のように記述されています。

 「妻の葬儀も終え、がっくりきている私を心配して、知人が精神科を紹介してくれました。

 その方がご主人を亡くして心を病んだ時にかかった病院だそうで、とてもいい先生だから是非診てもらうようにと強くすすめられましたが、なかなか行く気になりません。気持ちが沈み込んでしまって、何に対してもやる気が起こらないのです。虎の門病院でもらった薬の残りを少しずつ飲みながら、私はただ、深い悲しみに耐えていました。

 そんな私を見るに見かねたのか、親戚が強く勧めて横浜へと連れ出してくれました。そのときの私はすっかり心が弱ってしまっていて、判断力も行動力も失っていましたから、周囲からのそうした働きかけや手助けがなければ、そのまま悲しみの底に浸っていることしかできなかったでしょう。

 伴侶の死をきっかけにうつ病を患ったという、その知人が強く推薦するだけあって、確かにとてもいい先生でした。

 何より良かったのは、『会話』があったということです。そこが
虎の門病院のときと一番違う点です。こちらの話に丹念に耳を傾けて、ときおり共感を示してくれるだけでも、心が少し楽になったような、癒されたような気持ちになれるものです。

 『死にたくなる』と訴える私を先生はまっすぐ見つめ、真摯な口調でこうたしなめました。

 『あなたと私がこうしてお会いすることができたのも何かのご縁ですから、それはなしにしましょうね。』――真夜中でもいいから、何か思い悩んだら電話しなさい、と自宅の電話番号を書いてくれました。

 そのあとで書いてくれた処方箋には、虎の門で出されたものとほとんど同じ薬の名前が並んでいましたが、そのことでかえって私はカウンセリングの重要性を痛感しました。

 薬を本格的に飲み始めたのはそれからです。

 効き目があるのかといえば、これはあります。次々に湧いてくる心配事でこんがらがった頭の中も、精神安定剤を飲むと少し整理されるのか、気持ちがスーッとしてきます。

 うつ状態のときはたいてい、視野狭窄に陥ってものごとのネガティブな側面しか見えなくなるものですが、薬の助けを借りることで、同じ心配事も、事態はまったく変わっていないのに『いや、そこまで心配する必要はない』と思えるようになってきます。『今まで、どうしてそんなつまらないことで悩んでいたんだろう』と、少し楽観的な視点を取り戻せます。

 どんな感じかといえば、お酒を飲んで微醺を帯びたときの、あの心地よさに若干似ています。軽い躁状態とでもいいましょうか――軽躁状態というのは非常に気持ちのいいものです。世の中には年がら年中天然の軽躁状態という人もいますが、根が神経症気味の私からしたら本当にうらやましい話です。

 症状がひととおり落ち着くまでは、目白の自宅からその横浜の病院まで通っていましたが、しばらく経つと先生の方から、通院の便を考えた上で、東京のいい先生を探しましょうと提案して下さいました。」

 倉嶋さんを初診しましたのは丁度今から11年前の7月でした。そのときの情景は今でもありありと覚えています。とても良い患者さんでした。こちらの話はすべてそのまま受け止めてくれました。「死にたいと思うことはあります」といわれるので、「今はうつ病の状態でそういう気持ちも湧きますが、うつ病は1、2カ月で必ず治りますからそのような事はしないと約束して下さい」とお話しますと「わかりました」と答えてくれました。また「死にたい気持ちが起きてきましたら、いつでも電話して下さっていいですから」と言って名刺に私の自宅の電話番号を書いてお渡ししました。しかし現
在まで一度も電話がかかってきたことはありません。倉嶋さんは薬の反応も良く、2カ月程度で寛解しました。ご自身が書かれているように軽躁状態程度までになりました。その後、近くのクリニックに転院して頂きましたが、本を読みますと再燃し、大学病院の精神科病棟に入院するまでにいたってしまうのですが結局は完治し、4年前の対談時は薬も服用せずに、すっかりお元気でした。「今は70
%主義にして無理はしませんよ」と笑っておられました。確かに70
%主義はうつ病の再発予防に適切な対処行動と思いました。この対談は講談社から発行されていたオブラという雑誌の2004年6月号に掲載されています。

 倉嶋さんのように、伴侶の死は人生最大の不幸です。ですから多くの方がうつ状態になります。うつによって、十分悲しみに浸ることによって初めて大切な人の死(対象喪失)を受容できるという面があります。枯れるほど涙を流して初めて立ち直れるという面があります。涙には人を癒す力があります。うつの持っている力です。悲しみから立ち直ろうとする時、何かを作り出す事がよくあります。これはグリーフワーク(悲嘆作業)とかモーニングワーク(喪の作業)と言われます。これもうつの大きな力です。以前紹介しました宮沢賢治の『永訣の朝』もそれによる傑出した作品です。倉嶋さんの『やまない雨はない』もグリーフワークとして生まれた作品です。人は書くこと、話すことなどで立ち直れる事があります。悲しみという感情に言葉を与え、書いていく事で心から切り離し、「思い出」化していく事になります。話すことで悲しみが分かち合われ、減っていきます。倉嶋さんは今84歳ですが、全くお元気で、執筆に講演にと活躍されています。4年前対談の際、編集者の方々に倉嶋さんは私のことを「私の命の恩人です」と言って下さいました。それは精神科医冥利に尽きる言葉でした。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.55 2009 WINTER