不安・うつの力(]Z)

俳優 竹脇無我氏の場合

医療法人 和楽会 横浜クリニック院長

山田 和夫

 穏やかで、知的で二枚目の俳優 竹脇無我氏がうつ病(双極性障害)になっていたと知ったのは平成15年7月に発刊された竹脇無我著「凄絶な生還――うつ病になってよかった」(マキノ出版)を読んでからです。テレビドラマで見ていた竹脇氏は穏やかで、無理をすることも無い、激することも無い役柄を見ていただけにうつ病になることは考えもできませんでした。

 竹脇氏は昭和19年2月17日疎開先の千葉で生まれ、東京で育ちます。昭和35年高校1年生の時に映画『しかも彼等は行く』でデビューします。以後、『姿三四郎』『人生劇場』『小説・吉田学校』など多数の映画に出演するほか。テレビドラマ『大岡越前』『だいこんの花』『おやじのヒゲ』、舞台『赤ひげ診療譚』『雪国』『弧愁の岸』などで活躍していました。

 竹脇氏が最初にうつ病になったのは平成3年1月、親友で俳優の松山英太郎氏が食道がんで亡くなってしまった事がきっかけでした。二人称の死、喪失体験がうつ病の契機でした。
「親友を失った悲しみが、同年代の自分もいつそうなるか分からないという、足元が揺らぐような思いといっしょになって僕を襲った。それを紛らわせるには、酒を飲み続けるのがいちばんよかった。しらふでいると気がめいる。酔っぱらってしまえば、どうでもいいやという捨てばちな気分がわいてきて、ほんの少しらくになれる。僕の心と体の歯車は、この頃から少しずつきしみ始めていたのかもしれない。」(P13〜14)

 
徐々に倦怠感が募り体調はきつかったにもかかわらず、何とか俳優の仕事はアルコールの力を借りながらこなしていきます。しかしそれも限界が来て、平成8年1月専門病院でうつ病の診断を受け、そのまま入院してしまいます。「うつ病になってから、いったん引き受けた仕事をキャンセルしたのはこれが初めてだった。こんなに直前にキャンセルされると、台本を書き換えるなど、現場は大変だろうと思うが、どうしようもない。ドクターストップをかけられるまでもなく、もうほとんど体が動かない状態だった。入院中は抗うつ剤や睡眠剤が投与され、食事などの時間以外はよく眠った。時間を気にせずベッドで寝れるのがうれしかった。そうして、少しずつ気分の落ち込みが軽くなってきた。」(P76〜78)

 その後、何度かうつ状態を繰り返し、時には希死念慮が強く湧き苦しんだ時期もありましたが結局8年の闘病で、この本を出版した平成15年には回復状態となり、穏やかな日々が続いているとの事です。闘病していた時期は、さまざまな先輩、友人の言葉掛けで乗り切れたといいます。中でも、父子役で共演していた先輩の森繁久弥氏と、大岡越前で共演していた加藤剛氏からの手紙には癒され、勇気付けられたと言います。
「僕が思うに、うつ病から抜け出すのになくてはならないものが四つある。一に休養、二に薬の助け、三に治したいという自分の気持ち、そうしてもうひとつは、周囲の人の支えだ。僕の場合も、本当にいろいろな人の世話になった。うつ病のさなかにいるときは、そんなことはまったくわからない。真っ暗な闇の中にいるようで、ひたすら孤独だ。だが、回復して振り返ってみると、たくさんの人が自分を心配して、気にかけてくれていたことに気づく。」(P120)

 森繁久弥氏は、体調を崩して演技ができない時も決してしかり付ける事は無く見守っていてくれていたという。
「うつ病の人は、励ましてはいけないのだという。それは本当だと、自分がなってみて心から思う。励まされると、自分としては極限までがんばっているのに、どうしていいかわからなくなる。うつ病のとき、仕事などの責任を果たせていないことは、自分がいちばんよく知っている。わかっていて動けないからよけい落ち込むのだ。だから、そっと見守ってくれるのが何よりありがたい。」(P123)森繁氏を気遣う手紙を書いた際、すぐに来た返事が次のような手紙であったと原文が紹介されている。

「いつくしみ深きむがさまへ
 待てば海路の日和 といいますが、長い間、待ちました。
 まずはいいお手紙です。私も目がひらきました。
 無我がくさってると、私も、だんだんくさります。
 元気に生きましょう。私も、あと残りの少ないいのちです。
 笑って、頑張りましょう。
 ユダヤの格言の中に、
 人間はないてばかりでは 生きられない、
 また笑ってばかりでも 生きられぬ
 と云うのがあります。
 交互にやればいいでしょう。
 太陽にだってそれがあります。
 ましてや人間にだって。
          三月十日久弥」
          (P124〜125)
「気持ちがスーッとらくになった。この手紙を読んで、『そうか、太陽が昇って沈むみたいに気分が変わっても、それはそれでいいな。自分なりにやっていこう』という気になれた」(P125)
といいます。竹脇氏は、うつになって良かったといっています。うつになって役者としてのイメージがハッキリしてきたと言います。これはまさに『うつの力』です。

「病気のなかには、どんなにきちんと治療しても、発症前に比べると心身のパワーが低下するものが多い。でも、うつ病は違う。きちんと治療すれば、病気になる前より、もっと元気になる。僕はそう実感している。その大きな理由は、さっきもいったように、うつ病になることで『違う世界が見られる』ところにあると思う。僕がT先生や入院仲間との出会いによって、前より広い視野を持てるようになったこと。自分のやりたい役のイメージがハッキリしてきて、そこをめざしていこうという気になれたこと。それらはみんな、うつ病になったおかげで見られるようになった『違う世界』だと思っている。そしてもうひとつ。うつ病になってそこから抜け出したことで、僕は『等身大』で生きられるようになった。僕が、今住んでいる家の中で、いちばん気に入っているのは三畳の寝室だ。昔から仕事先で泊まるホテルは、かっこうをつけてダブルやツインをとってくれといってきたが、僕は本当は狭いところのほうが好きで、落ち着ける。いまは三畳の寝室にふとんを敷いて、好きな本を寝つくまで読む。至福の時間だ。前はこんなふうに暮らすことなど、思いもよらなかった。なんとなく、かっこう悪いんじゃないか、イメージがこわれるんじゃないかというような思いに縛られていたのだ。いまみたいな家で暮らしていると、『無我のやつ、よっぽど金がないんだな』と思われそうだが、それでかまわない。人間、『起きて半畳、寝て一畳」というではないか。寝室は、三畳もあれば十分なのだ。こんなふうに、僕は、自分が心地いい事を堂々とできるようになった。『うつ以後』も大きな変化だ。」(P143〜145)

 竹脇無我氏のこのうつ病体験記には、うつ病の症状、治し方、回りの人たちの接し方、うつ病の意義などが実感のこもった言葉で平易に記載されています。「うつの力」も示されています。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.57 2009 SUMMER