不安・うつの力(]\)

俳優 萩原流行・まゆ美夫妻の場合 ―

医療法人 和楽会 横浜クリニック院長

山田 和夫

 俳優の萩原流行氏がうつ病を患った事があると知ったのは、NHK教育の福祉ネットという番組で「ハートをつなぐ」という特集の中で、自身のうつ病体験を語っていたの見たからです。テレビ上ではすっかり元気で、あのいつもの明るく陽気な萩原さんのままで、自身でも「こんな自分がうつになるとは夢にも思いませんでした」と言っていましたが、誰もがそう思ったと思います。

 その後、萩原さんの著書「W うつ」(萩原流行・まゆ美著:廣済堂出版:2009年7月)を見つけて購入し、読みましたら、今度は逆にうつ病になってもおかしくない「壮絶な人生」が書かれていました。ちなみに「W うつ」とは夫婦2人ともうつ病になったという意味のタイトルで、本も2人が自身のうつ病を交互に書き綴っています。さらに驚いたのは、飼っていた子猫小鉄までうつ病になり動物病院で安定剤の投与を受けました。正にうつ病一家の闘病記でした。ちなみに子猫の小鉄がうつ病になったのは、うつ病になった萩原流行氏の苦しい呟きを聞き続け受け止め続けたためとありました。猫にはそのような能力があるのですね。萩原氏夫妻はうつ病で苦しい中で、小鉄に随分と癒されたと書いています。猫にとっては堪ったものではないでしょうが。

 「僕は1953年4月8日に東京で生まれた。
 キレやすい僕の誕生日がお釈迦様と同じなのは、なにかの皮肉としか思えない。
 22年後に妻となるまゆ美さんは、12月25日生まれなので、仏陀とキリストのカップルだ。僕らの人生に嵐が年中吹きまくるのは、強烈な個性同士の組み合わせだからかもしれない。 
 ちなみに僕の本名は萩原光男だが、その由来は『光源氏のような男に育ってほしい』だそうだ。とびきりのプレイボーイの名前を自分の子どもにつけるなんてうちの親は相当変わっている。
 母親は東京下町の大工の棟梁の家に、後妻の娘として誕生した。小さい時は“お嬢さん”として育ったらしい。だが、母の父親が死んだとたん、母は実母と一緒に先妻の子どもたちに家を追い出された。
 それまで一度も働いたことのない母は、突然自分の母親を養うはめになりチケット制のダンスホールの踊り子さんになった。そのダンスホールで母を見染めたのが、ホールに出演していたバンドのギタリスト。それが僕の父親だ。といっても、父にはすでに家庭があったので、母は今でいう愛人という立場で、兄貴と僕を生んだ。」(p99〜100)
 「僕が父と初めて会ったのは、小学校に入る少し前だったと思う。そのときのことは、今でもはっきり覚えている。
 生まれて初めて“父親”を認識したその日、その男は母に暴力をふるっていた。
 その次も、そのまた次のときも、父は家に来ると母親を殴っていた。」(p101)
 「父の暴力を目の当たりにした夜、僕はせんべい布団にもぐりこんで、いつも同じ願いごとをしていた。
 今日寝たら、このままずっと目が覚めませんように…。
 幼稚園児の頭に、“自殺”という言葉はなかったが、あの頃の僕は、こんな生活が続くなら死にたい、と感じていたのだと思う。」(p102)
 「僕が高校に進学してからも、親父の家庭内暴力は止まらなかった。
 高校2年生の6月だったと思う。土曜日の半日授業を終えて家に戻ると、そこら中に物が飛び散っていた。なにごとかと思って奥へ行くと、お袋と兄貴が顔を血だらけにして放心している。その横に立っていた親父と目が合った。
 チクショー、お前がやったんだな!もう許せねえ!
 ぐわっと頭に血がのぼった瞬間、親父をボコボコにしていた。
 腕力なら、もう僕のほうが勝っていた。親父の前歯を全部折ったが、それでも僕の気持ちは収まらない。とっさに台所へ行き、出刃包丁を取り上げた。
 殺してやる!
 親父に向かって進み、刺そうとしたところでお袋と兄貴にすがりつかれた。」(p108〜109)


 大学浪人中、スーパーカンパニーの主催者で舞台振付師の竹邑類氏に誘われ自由劇所の舞台に立つようになり、そのまま役者になってしまいました。そのような時に帰宅した所、家はもぬけの殻状態になっていました。本人に告げることなく一家は離散し、萩原氏も見捨てられ状況になってしまいました。当時付き合いだしていたまゆ美さんに助けを求めたところ、彼女の力でアパートを借り、半同棲生活をするようになりました。

 まゆ美さんは杉並区に住む普通の家庭のお嬢さんでした。父親が教育熱心で、徹底的にピアノと歌を習わせました。まゆ美さんは、杉並児童合唱団に入りソリストを務めるまでになります。萩原さんと同じスーパーカンパニーの主催者竹邑類氏にミュージカルの振付けを受けるようになります。それが縁で、短大卒業後スーパーカンパニーに入団し、萩原氏の不測の状況に巻き込まれる形で同棲生活が始まります。その後萩原氏の自由奔放な生き方に巻き込まれ精神的苦難な状況に追い込まれていきます。

 まゆ美さんはもともと人見知り、分離不安があり典型的な社会不安障害がありました。女優になってからは、舞台でトイレに行きたくなったらどうしようという空間恐怖に捉われるようになり、更にはパニック発作を起こすようになります。30歳で退団するもうつ病を発症し、治療を受けるようになります。

 萩原氏は、意見の対立からスーパーカンパニーを退団後、劇作家つかこうへいに見出され、つかこうへい劇団に入団後めきめきと頭角を現し、NHKの大河ドラマに出演するまでになり、一躍全国的に有名な俳優となります。その多忙さと様々な不安からうつ病を発症します。最初の緊急な症状はテレビドラマの撮影中に声が出なくなったことです。慌てて、まゆ美さんの主治医の所へ駆け込み、うつ病の診断を受けて投薬を開始しましした。主治医からは1年間の休養を勧められましたが、忘れられてしまう不安から、休まず苦しいながらも仕事を続けました。しかしそのことが萩原氏を名優にしていきました。

 萩原氏は語ります。

 「大きなプレッシャーは、うまく跳ねのければとてつもない力になる。普段以上の達成感も得られる。
 それで僕は、プレッシャーを与えてくれる監督や演出家が好きなのだ。
 ただでさえプレッシャーの多い職業なのに、僕の場合『もっと、もっと』と自分からさらなるプレッシャーを求めているところがある。
 あとから考えれば、演技への僕の取り組み方の中に、うつ病を発症しやすい要因が隠されていたわけだ。
 だから今はこう思っている。
『うつ病は真摯に仕事をした証。僕にとって、役者の勲章だ!』」
(p171〜172)


 役者にとって、不安・うつは名演技への力になっているわけです。

引用文献:萩原流行・まゆ美著『W うつ』(廣済堂出版:2009年7月)

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.59 2010 WINTER