不安・うつの力(]]U)

作家 南木佳士氏の場合

医療法人 和楽会 横浜クリニック院長

山田 和夫

 南木佳士氏は昭和26年(1951年)10月に群馬県吾妻郡嬬恋村に生まれました。本名は霜田哲夫。父重義は婿養子で鉱山会社に勤め、母つぎは群馬女子師範を出て、地元で小学校の教師をしていました。南木が3歳のとき母が結核で死亡したため、その後は母方祖母に育てられました。この体験はとても大きかったようです。死に対する不安・恐怖、死にたくないという気持ち、人は1人では生きていけないという気持ち等が潜在的に刻み込まれたようです。このために医師になっていくという部分があります。

 『からだのままに』(文春文庫、2010)に次のような記述があります。

 
「母が肺結核で死んだとき、まだ三歳だったから彼女の記憶は全くない。母方の祖母が『老いた母』としてわたしを育ててくれた。

 夫に死なれ、婿をとって家のあとを継がせるはずだった娘に死なれ、祖母は五十代の半ばで再び子育てを始めた。(中略)

 再婚して家を出た父からの仕送りはあったが、祖母は田を作り、山の斜面の畑を耕して、ほとんど自給自足の生活を営んでいた。この時期に刷り込まれた人の暮らし方の基本は、人生のたそがれどきを迎えつつある今日でもからだの芯にしっかり残っている。祖母は言葉の人ではなく、黙々と実行する人だった。春になれば田に出、秋には山で薪を集め、冬は繕いもの。(中略)

 いま、亡き祖母にしみじみ感謝したくなるのは、そういう形にあらわれたさまざまな心遣いではなく、質素で平凡で、他人の悪ロを言わずに営んでいた静かな暮らしのなかに私を置いてくれたことである。」(P130〜131)


 父が東京に転勤になったため、中学から東京に行き、都立国立高
校に進学します。私(山田)は1歳年下で、都立九段高校に進学しましたので、同じ時期に都立高校に学んでいます。当時の都立高校は学校群制度ができたばかりで、屈折した気持ちで高校に入学したことと、学園紛争の中で個人で受験勉強をしたという時代でした。そういう嵐のような時代の中で多くの高校生が文学に目覚めました。南木氏も私もそうでした。文学では飯が食えないという気持ちで医学部へ行くことも同じでした。

 南木氏は1期校の千葉大学に落ち、2期校の新設の秋田大学医学部に入学します。ここでも挫折した気持ちで医学部に入学します。卒業後、故郷の嬬恋村に近い長野県南佐久郡臼田町にある佐久総合病院に内科医として勤務し、現在に至っています。当時、佐久総合病院は大学病院と対極にあり、医療改革の旗手でもあった若月俊一院長を擁し、農村医療を目指す臨床実践の病院でした。当時では珍しい看取りの内科医(現在で言うと緩和医療医)を志し、臨床実践していきます。やはり幼児における「死」に対する思いが潜在的動機にあるように思います。小説家も志し、臨床体験を小説化していきます。

 「そもそも、小説を書いてみようと思い立ったのは佐久平の病院で内科の研修をはじめてニ年ほど経ったころのことだった。大規模な総合病院ゆえに重症の患者さんも多く入院しており、他者の死に立ち会う回数が増えてくるにつれて、人が死ぬ、というあまりにも冷徹な事実の重さに押しつぶされてしまいそうで、このつらい想いを身のうちに抱えては生きてゆけないと明確に意識し、自己開示の手段として小説を選んだ。」(前掲P53)

 一時期、軽井沢の町立病院に派遣され、そこでの臨床体験を「ダ
イヤモンドダスト』という小説にし、これが第100回芥川賞を受賞します。

 『ダイヤモンドダスト』の主人公は軽井沢町立病院の看護士。母親は早くに亡くなり、妻もガンで早逝し、昔の草軽電鉄の運転手の父親と1人息子の男三世代の生活。この小説には、作者の人生が細分化されて投影されています。ある日、アメリカの中年宣教師が入院します。彼は、ベトナム戦争のファントム戦闘機の空軍兵士でしたが、今は肺がんの末期状態。主人公の父親も脳梗塞で倒れ同じ部屋に入院します。死期が迫っている日米の老人同士の友情が叙情的に描かれます。芥川賞受賞後、渾身の力で小説を書き続け、また死を看取るという重い臨床をし続け、その過重労働の1年後強烈なパニック発作を起こし、それが治りきらないためうつ病を併発し、何もできない苦しい2年間を過ごします。自殺も自然に浮かびましたが、残される二人の子供の事を思い、思い留まったと言います。その時の体験から、自殺は自分の意思でするのではなく、そういうメカニズムに組み込まれ、自殺に向かっていってしまうと述べています。ここでも押し留めたのは、幼児期の体験だったと思います。祖母との深い絆は、自身と子供への絆に繋がっていました。

 「第100回芥川賞を受賞し、プロの作家として締め切りを決められた小説を書きながら、それまでどおりの医業をこなす暮らしに疲れ、それ以上に、死者を看取り続ける毎日に疲弊しきっていた。そして三十八歳の秋にパニック障害を発病し、うつ病に移行していまに至っている。

 焦燥感に駆られ、希死念慮を追い払うのにすべてのエネルギーを使い果たし、かといって昼寝もできず、という状態が数年続いた。このとき、書けないことよりも、読めないことの方がつらいのだと、痛切に感じた。

 食べ物の味がしなくなっていて、空腹も覚えず、ただ生き延びるため、死なないためだけに、まさに砂のような味の味噌汁や飯をかきこんでいた日々、本の活字も意味を背負ったものとは受け取れず、その羅列されたさまがおっくうなだけで何度か開いては見たものの、読む気にはなれなかった。」(前掲P35)

 「いかなる思いを抱こうと自分のからだの苦楽からはじゆうになれないのだから、結局のところ人生における最大の危機とは、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされる現実において他にない。そう断定するようになったのは三十八歳の秋にパニック障害を発病し、以後、うつ病のどん底に沈む数年間の体験を経てよりのちのことだ。(中略)

 その後医学の教科書に不定愁訴として記されているすべての症状にみまわれ、取りあえず死なないでいるのが精一杯の状況がかなり長く続いた。書くことはもちろんできず、活字を読む気力もなかった。

 不安、焦燥感に煽られる日々から逃れるためなら、と自裁を想いつく己の思考回路が恐ろしかったが、その回路のスイッチを切るために向こう側の世界へと誘い、そっと背を押す見えないカのほうがあとで冷静になってみればはるかに怖かった。こういう根源の恐怖を体験してしまうと、世俗の価値の調整なんてどうでもよくなって、とにかく死なないでいる事の大事さのみを考えるようになる。」(前掲P112〜114)(中略)

 「症状がいくらか軽くなってきたある朝、新聞で大森荘厳のエッセイを読んだ。人は大いなる自然の一点景でしかなく、人の感情も天地の有情に左右されるばかりのものにすぎない、との一見ありふれた内容で、こういう説を押し付けがましい難文で読まされたら即座に反撥していたところだが、老いた哲学者の文章はどこまでも明晰で澄みわたっていた。書かれたものが身の奥にしみてくる実感があった。」(前掲P114)


 大森荘厳の言葉は、南木のパニック障害と派生して生じたうつ病の大きな苦悩の状態に一条の光明を差し、生への道への確かな道標となりました。大森の言葉はパニック障害やうつ病でくるしんでいる人々に生きるヒントを与えていますので、ここに再掲します。

 「『流れとよどみ』(産業図書)は1981年初版のエッセイ集だが、内容が古びて感じられるものは一篇もない。なかでも「真実の百面相」と題された章は今日に至るまで最も多く読み返した達文である。

 「本当は」親切な男が働いた不親切な行為は嘘の行為だといえようか。その状況においてはそういう不親切を示すのもその親切男の「本当の」人柄ではなかったか。人が状況によって、また相手によって、様々に振る舞うことは当然である。部下には親切だが、上役には不親切、男には嘘をつくが女にはつかない、会社では陽気だが家へ帰るとむっつりする、こういった斑模様の振る舞い方が自然なのであって、親切一色や陽気一色の方が人間離れしていよう。もししいて「本当の人柄」を云々するのならば、こうして状況や相手次第で千変万化する行動様式が織りなす斑なパターンこそを「本当の人柄」というべきだろう。そのそれぞれの行為のすべてがその人間の本当の人柄の表現なのである。」(前掲P115〜116)


 様々の志を諦め、あるがままに生きていこうと思った時から少し楽になり徐々に回復し、再び臨床ができるようになり、小説も書けるようになりました。今度は気負わず、無理せず、臨床も健康診断医となり、小説も自然体なものになっていきました。これが却って、読者に静謐な深い感銘を与えていったといわれます。これが正に「不安・うつの力」でしょう。

 その後は、日曜日は必ず奥さんと一緒に登山をするそうです。特に、下山の歩行が重要で、意識的に下山するそうです。登山をするとすっきりし、月曜日から元気に臨床ができるようになったといいます。これはうつ病回復に対する運動療法の実証でもあります。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.62 2010 AUTUMN