お彼岸にあたって

 私の母は、平成十三年十二月に永眠しました。享年七十一歳でした。今年、七回忌を控えています。ちょうど三月のお彼岸にあたり、今回は、母との死別の際の個人的な経験について、少し書いてみたいと思います。

 母は長年、糖尿病を患い、入退院を繰り返していました。平成十二年の暮れに、体調を崩し実家の近くの病院に入院してからは、病状が回復することはなく、約一年間の入院生活の後、亡くなりました。

 私は、当時、自衛隊仙台病院精神科に勤務し、一、二ヶ月毎に実家の愛知に帰省して、母を見舞っていましたが、病状が進行してだんだん思うように動けなくなり話もできなくなっていく母を見ていまして、今回は、もう退院することは出来ないかもしれない、これは覚悟を決めなければならないようだと感じていました。母は、思うように話はできないものの、私たちが見舞った際には、笑顔を見せ、うなずいたりしてくれていました。

 そんな中、十二月九日の夜遅くに、ずっと看病に当たっていた父から、母の容態が急変したとの知らせが入りました。急いで帰省の支度をしている間に、再度連絡があり、たった今、亡くなったとのことで死に目には間に合うことができませんでした。

 帰省すると、母は、実家の仏間に横たわっていました。今までの見舞いの時となんら変らず、ただ眠っているだけのように見えました。遺族の気持ちとしては、もう何も物言わない母ですが、そのままいつまでもそこにいてほしいと言う思いがありました。まだ、母の死を受け入れられなかったのだと思います。


 内科、外科の研修時代に、何人かの患者さんの臨終に接してきて、別れの時というのは、まさに臨終のその時だと思っていましたが、自分の母の死に臨み、その認識が変りました。私にとって、母との別れは四回ありました。

 一回目が母の死を告げられた時、二回目が通夜を控えての納棺の時(丸一昼夜、布団に横たわっていた母を父や兄弟らで棺に移し、母の死を受け入れる時でした)、三回目が告別式の読経の時(いよいよ最後の別れが近づいていると言う思いを強くする時間でした)、そして火葬の時が四回目の最後の別れでした。数時間後に灰になった母を見た時、もうこの世には存在しなくなってしまった母のことを実感しました。

 死に顔との対面、納棺、告別式、火葬と、そのひとつひとつが母との永久(とわ)の別れを受け入れていく儀式でした。人の死にかかわることの多い医師と言う仕事をしてきたにもかかわらず、死生観と言うものについてもう一度考え直される経験でした。


 半年ほど経った頃、母の夢を見ました。母と一緒に、何かの用事で近所の家を回っているのですが、そういえば母は入院していたのだということを思い出して、私は、元気に歩いている母に対して声をかけました。「お母さん、歩けるようになったんだね。もう退院できないんじゃないかと心配していたけど良かったね」と。母は微笑んでうなずいていましたが、その時、母はもうすでに他界してこの世にはいないということに気がつきました。ああ、これは夢なんだと思い、少し涙腺が緩んだところで目が覚めました。夢の中とはいえ、久しぶりに母に会えたことを感謝した覚えがあります。


 四十九日があり、一周忌、三回忌と法要を務め、今年、十二月に七回忌の予定です。こうした儀式を通して、残された者は、悲しみを癒していくのだろうと思います。

 今回は、ちょっと湿っぽい話になってしまいました。

医療法人和楽会 心療内科・神経科 赤坂クリニック院長

吉田 栄治



ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.48 2007 SPRING