人生の意味?

 うつ状態にある患者さんから、時折、「いったい生きている意味って何なのでしょうか?自分は生きている意味がないように感じてしまうんです。」という質問を受けることがあります。難しい質問だと思います。答えはそうそう簡単に見つかるものではないでしよう。

 こんな時、患者さんに対しては、「生きている意味は、きっと見つかります。」「今は、病気がそう思わせているのであって、うつの状態から脱してくれば、必ず気持ちは変わってきます。」と、誠意をこめて、お話をしています。

 また、前回のケセラセラ(数学の問題)にも書いたように、実はきわめて現実的、具体的な問題が背後にひそんでいて、それが原因で、そんな気持ちになっていることも多いのです。そんな時は、問題点を明確化、単純化して解決策を患者さんと一緒に探っていくということもしています。

 とはいうものの、切実な訴えであればあるほど、答えに窮することもあります。先日は、「生きていることに何か特別の意味が必要なんでしょうか?あなたが生きていること自体が大事なことなのではないですか?」と、お話をしたこともありました。

 一年ほど前、詩人リルケの『マルテの手記』という小説についての紹介(1)が、新聞に載っていました。絵本作家の はらだ たけひで氏の解説で、その中で、はらだ氏は次のように語っていました。

 『生きることの意味はなんだろう。その答えを知るためには未来を恐れてはならない。多くを経験し、喜びだけではなく苦しみも甘受しなければならない。』

 苦しみにもきっと何らかの意味があるのだと思います。苦しみもふくめて、その全てが自分の人生の経験になるのだと考えてみませんか。先の記事を読んでからは、こんな風に患者さんにお話することもありました。
(新潮文庫『マルテの手記』も購入して読んでみましたが、こちらは非常に難解な小説でした。)

 ここで、とある講演会(2)で聞いたちょっとしたエピソードをご紹介したいと思います。大分前に聞いた話になりますので、細部は、ちょっと違っているかもしれません。

 子供達は、すでに独立し、妻も数年前に他界し、今は田舎で一人暮らしをしているある父親の話です。その父親が、屋根裏部屋の荷物の整理をしていた時のことです。自分が書いてきた古い日記と、息子が子供の頃書いていた日記が出てきたそうです。その父親は、ちょっと面白いことを思い付きます。その自分の日記と息子の日記の同じ日付のところの記事を読み比べてみることにしたというのです。自分がこんなことあんなことをしていた日に、息子はどんなことを考え、していたのかと、興味深く読んでいったそうです。

 そうしたところ、ある日曜日の自分の日記にこんなことが、書いてあったそうです。

 その日は、仕事で疲れていて、父親は、ゆっくりと寝ていました。すると、息子に起こされて、魚釣りに行こうとせがまれたそうです。行きたくなかったし、仕事も残っていて、とてもいやだったようですが、仕方なく、息子と二人、魚釣りに行きました。ところが、魚は一向に釣れないし、その上、途中から雨も降ってきて、へとへとになって帰ってきたそうです。父親は、今日は、さんざんの一日だった、と日記にしるしました。

 息子の日記の方を見ると、たった一言、次のように書いてあったそうです。

 「今日は、お父さんと魚釣りに行けて、今までで最高の一日だった」と。

 人生のクリエイティビティ(創造性)についての講演の中での、ちょっとしたエピソードの紹介でしたが、人生の意味ということについて少し考えさせられました。自分では全く無意味に感じていても、自分の周りの人にとっては、自分の存在がとても大切な意味を持っていることがあるのだなあと。

 自分の人生に生きている意味がないように感じてしまっているとしても、思わぬところで意味が生じていることもあるのです。どこでどんな意味が生まれているのかは、後になってみなければわからないこともあるのだと思います。最初にも書きましたが、あなたが生きていることは、もうそれ自体で、意味のある大切なことなのです。

(1)はらだ たけひで「名作ここが読みたい「マルテの手記』、一行詩のためには・・・・」読売新聞2008年3月29日(土)夕刊

(2)コーブス・ニースリング「新世紀における新しいクリエイティビティ」Coaching 2008「クリエイティビティを発揮する」基調講演

医療法人和楽会 心療内科・神経科 赤坂クリニック院長

吉田 栄治

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.57 2009 SUMMER