2011年3月11日

 3月11日14時46分、東北関東大震災が起きました。私は、午後の診療を開始する少し前で、6階のクリニックの診察室で待機していました。非常に大きな揺れが続き、これはちょっとやばいと感じ、診察室を出て、入り口のドアの確保に当たりました。既に事務の者が非常口のドアの鍵を開け、閉まらないようにつっかえがしてありました(日ごろから地震の際はまずは避難路の確保をするように申し合せてありました)。ちょうど昼休みの時間帯だったため、患者さんは多くありませんでしたが、三、四名の方が待合室で待っておられました。あれほど揺れる地震を経験したのは初めてでした。揺れている最中にビルの外の非常階段で退避する事はたいへん危険に思われましたので、地震がおさまるのを待っていましたが、延々と揺れは続きました。後から5分ほどの時間だったことを知りました。小物が倒れ、書類が散乱したくらいで、幸い怪我人もなく、まずはホッとしました。患者さん方もすぐに落ち着かれました。

 診察室の窓から外を見ると、近くのビルの社員さんたちがヘルメットをかぶり非常用物品のリュックを背負って歩道に集まりだしていました。地上に退避するべきかどうか迷いましたが、壁にひびが入るなどの損傷はなく、ビルの管理会社からの退避勧告などの連絡もありませんでしたので、患者さんの診察を早々に行うことにしました。余震がずっと続いている中、普段よりは手短に診察を進めていきました。そうしたところ、15時16分ころ二度目の大きな揺れが来ました。再度、入り口の確保に向かいました。2回目の大きな揺れは、1回目ほどではなく、その後、すぐに診療を再開しました。とにかく待っておられる患者さんの診察を早々に済ませ、患者さんが一刻も早く帰ることができるようにと考えました。これがたとえば東京直下型の地震で、建物に被害が生じているようであれば、診療はすぐに切り上げて、避難すべきところだったのだろうと思います。結局、4時半まで診療を行いました。その後は、電車も止まっており、患者さんが来られる様子もなく、診療は終了としました。

 大地震の際などは、無理に帰宅しようとせず、まずは情報収集ということを聞いていましたから、勤務員とどうするか検討しました。クリニックにはテレビがなく詳しい被害状況がわからず、インターネットとラジオから、宮城県沖が震源で一部が震度7、津波の被害も出ているらしいくらいのことしかわかりませんでした。家族の安否も心配でしたが、電話も携帯メールも全くつながりませんでした。

 宿泊するのであれば、すぐにでもホテルに何部屋か確保したほうがいいのではないかなど迷いましたが、まだ、この時点では、夜遅くには電車も動き出すだろうと考えていました。幸い赤坂近辺の飲食店はやっている様子でしたので、まずは、皆で夕食をとってという意見も出ていました。近くに勤めている知人の車で、千葉方面に一緒に連れて帰ってもらうという事務員もおりました。

 一人、板橋方面に歩いて帰るという事務員がおりました。私は、電車が動かなかった場合は、クリニックに泊まろうかと思っていたのですが、帰る方向が同じで、一人で帰すことも心配でしたので、私も一緒に帰ることにしました。私自身は日ごろから、いざという時に歩いて帰ることになっても困らないよう文庫サイズの地図を持ち歩いており、道順も一応確認していました。3、4時間かかるかもしれないけれども途中で電車が動き出せばそこから乗ればいいだろう、あるいはタクシーが途中でつかまったらそれで帰ればいいと考えて、午後6時20分ころに赤坂を出発しました。道路は大渋滞で車はほとんど動いていない状態でした。タクシーなどつかまる気配は全くありません。たとえつかまっても大渋滞でほとんど動かないような状況でした。徒歩で帰宅しようとしている人はたくさんいました。途中コンビニでトイレを借り、ドーナツのおやつを事務の子からわけてもらって(おにぎり、サンドイッチのたぐいは売り切れてありませんでしたが、幸いおやつのたぐいはまだ残っていました)、家路を急ぎました。結局、2時間半ほどで家に着きました。午後8時50分ころでした。結果的には、普段の帰宅時間とほとんど同じでした。家族には、どうやって帰ってきたの?と驚かれました。徒歩で帰ろうとした事務の子のおかげで、私もその日のうちに家に帰ることができました。

 家に帰り、テレビのニュースで被害の甚大さを知り驚かされました。日ごとに被害者の数が増えていき、今や亡くなられた方と行方不明者の数は2万人を超えます。ニュースを見るたびに胸が痛み、涙も出てきます。赤坂クリニックに来る前の4年間、勤務していたのが自衛隊仙台病院でした。今、防衛医大の同期や後輩たちが自分たちも被災者でありながら、災害にあわれた人々の診療にあたっているようです。知り合いの安否も心配ですが、仙台、福島あたりから通院されている患者さんもおられます。東北に実家のある患者さんも何人かおられます。皆さんの無事を祈るばかりです。

 東京においても、福島原発の問題、計画停電の問題、物流の滞りの問題など、不安なことはたくさんあり、これからいったい日本はどうなってしまうのだろうかと心配になりますが、東京にいる私たちに今できることは、日本の社会が停滞してしまわないよう、どんな些細なことでもいいので、自分にできることをしっかりとやっていくことではないでしょうか。亡くなられた方々のご冥福を祈りつつ、1日も早い東北の復興、日本の復興を祈りましょう。

医療法人和楽会 心療内科・神経科 赤坂クリニック院長

吉田 栄治

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.64 2011 SPRING