プル−スト現象

  雄太は今日の会議のことを気にかけつつ通勤快速に乗った。車内は中等度の混雑でゴ−ルデンウイ−クも過ぎ女性乗客には薄着が目立った。見るともなく窓の外の景色をながめる雄太の頭の中では午後開かれる企画会議がすでに始まっていた。あの頑固頭の部長とまたやり合わなければならないなと考え、雄太の気分は少し重くなっていた。

  電車が次の駅に停車し扉が開くと、車外から初夏のかすかなそよ風が吹き込んだ。その瞬間、それまで雄太を捉えていた多少滅入った気分が突然払拭された。茫洋とした何となく気恥ずかしい情感が湧き上がり、それはすぐさま胸をときめかすかすかな幸福感に変化していった。この小さな快感はどんどん拡がりついには希望に満ちた歓喜にまで高まってきた。この近年経験したことのないさわやかな感動の源は何だろう? それはあのそよ風に乗ってきた香りであることには間違いなかった。しかし、これはただの香水のそれではない。プラスアルファ−が重要なのである。

  雄太のこの快感はその香りと関係はあるが、それ自体によるものでは決してない。香りそのものによる快感を十倍も百倍も凌駕していた。一体何故? 第2の疑問が生じた。雄太の脳内の神経細胞が次々に発火し、38年間の記憶ファイルをスキャンニングし始めた。彼の生体コンピュ−タ−は全速力で作動し、この快感に対応するキイ・ワ−ドを探し始めた。雄太にとってたいへん長い努力の時間が過ぎた。やっとのことでキイ・ワ−ドが意識の紙にプリントアウトされてきた。それは”中学校の運動会”だった。雄太は男女混合リレ−の2番走者としてバトンを受け取ろうと前走者の到着を待っていた。そこに勢い余った前走者ブルマ姿の明日香が衝突してきた。彼女の胸の膨らみを背中いっぱいに受けとめた瞬間の ... あっ! あの匂いだ。

  五月待つ 花橘の 香をかげば

    昔の人の 袖の香ぞする (古今和歌集)

愛医 平成7年1月

医療法人 和楽会
理事長 貝谷久宣