摂食障害の女 − 高度文明社会の落とし子

  B女は32歳になる妻であり、母であり、ワ−キングレ−ディ−でもある。主訴は、「過食」と「自己誘発性嘔吐」だ。大学2年生の時、自分のスタイルを気にするようになった。その当時の体重は約50Kgだったのが、エスティティックに通い、1ヶ月間で 5 Kg 痩せたという。そしてまもなく過食が始まった。これは多くの過食症患者が示す典型的な経過である。このような患者を見ていると、脳内の食欲中枢が過激なダイエットにより殆ど非可逆的なダメ−ジを受けてしまったのだと解釈せざるを得ない。その根拠は2つある。まず第1に拒食症時の脳CTをみると脳室の拡大がみられ、さらに大脳皮質も萎縮していることである。これは脱水による可逆的所見とみなされているが、しかしこれ程までの脳萎縮がそのままで済むとは思われない。もう一つは、実際に臨床経過を見ていると、一旦このような症状を呈した患者は1年や2年で治ることは非常に少なく長く尾を引くからだ。このB女も既に10年以上も過食が続いている。過食症状というのは、ただたくさん食べるというのではなく、食欲は身体の内側から湧き起こる激しい衝動として出現し、理性が働く余地は微塵もなく、明らかに病的な状態である。”おいしい”とか”まずい”とか悠長なことを言っている余裕は全く有り得ず、ただただ無性に腹に詰め込むという状況である。満腹になると、次には吐き気という身体症状とともに、後悔と自己嫌悪の精神病理の渦に巻き込まれる。前者においては、喉元に手をいれボッミティングし、指の付け根に歯形を認める患者や、超強力な下剤の大量常用者も多い。後者では、いわゆるリストカッティングを始めとするスト−ミィ−な行動が稀ならず見られる。また、過食症患者の半数以上はうつ状態を伴っているが、B女には明かなうつ状態は認められなかった。

  摂食障害の患者ではその社会機能はしばしば低下するものであるが、B女は超エリ−トの翔んでいる女である。3年前に独立して女性だけの人材派遣会社の社長になった。現在社員は100数十人だと言う。彼女のTEGエゴグラムはA項が飛び出た山型だった。この様な特質を示す人は、情動より理性が勝る典型的なコンピュ−タ−人間で、社会のトップに立つ社長に多いといわれている。ビジネスウ−マンのB女にとって会食することは文字通り日常茶飯事の任務であるが、このような席ではうまく過食症は隠し通している。それどころか、女性の武器を最大限に生かした気のきいた接待で、取引先の男性幹部にはとても評判がよく、それこそ営業成績は抜群で今の地位を築いたのである。神経をすり減らした仕事の後にB女はよくサウナに通う。サウナでぎりぎりまで熱さをこらえ汗を絞り出し、水風呂に飛び込む爽快感が好きだという。これは全く、過食症の症状、自己誘発性嘔吐と同じ精神構造の下の行動である。死ぬほど苦しい嘔吐の後のすがすがしい気持ちが忘れられないという。これらは自虐の後の快楽という点で共通した行動ではなかろうか。

  B女は同じ有名私学の同じフランス文学専攻の同じギタ−・マンドリンクラブの1年後輩の男性と、彼が卒業し一流企業に就職すると同時に結婚した。このカップルも最近しばしば耳にするノン・セックス夫婦である。男性の性欲が弱くなったのか、強くなった女性にとって被征服感の要素のあるセックスは忌み嫌い避けるものとなったのか、この最近の風潮の原因ははっきりしない。いずれにしろ、B女は夫とはこの数年間全く肉体関係がないと言う。では、B女はセックス嫌いかというと、そうではないらしい。夫以外の男性とは適当に楽しんでいるという。もちろんこの不倫は夫に知られることはなく、また、反対に、夫が浮気をしているような気配は全くなく、外見上は仲の良い普通のカップルである。B女の家族は夫とB女の実父および10ヶ月になる長男の4人である。ノン・セックス夫婦に赤子がいる? 何故? やっぱり口だけで実は...!そうだったんだ。この赤子は正真正銘の二人の子供であるとB女は主張した。実は彼女は人工授精を受けたのだった。このことを聞いたある出版社のまたまた翔んでいる熟女は、即座に答えた。「わたし、カエルのような女は嫌い!」蛙は雌が生んだ卵に雄がやってきて精子をかけるのだという。

  最近の女は結婚したがらない、結婚したとしても子供を持ちたがらない、たとえ子供をもうけたとしてもたくさん生みたがらない。B女は子育ての責任は自分にあるというが、しかし、養育は実母まかせである。子供は可愛くないことはないという。だが、知らないうちに子供を客観的にみてしまうと宣う。いつもいつもベタベタしたくないとも言う。母性欠如は現代のゆゆしき問題である。母性の替わりになる父性が出現しても、所詮男は子供を生めないのであるから、このままでは日本国は滅びかねないと考えられる。

名医 平成8年1月

医療法人 和楽会
理事長 貝谷久宣