醜形恐怖にとりつかれた直美

  直美が始めて私の前に現れたのは、私がまだ大学病院で初診を担当している頃であるので、彼女とのつきあいはもうかれこれ8年になる。当時、彼女は、家族にも誰にも相談できず、一人で悩んだ果て、神経精神科を訪れた。主訴は周期的に襲ってくる抑うつ気分であった。話をよく聞くと、その抑うつ気分のひな型の存在は中学2年生までさかのぼることが出来た。その頃から、家族、とりわけ秀才の長男を熱愛する母親は、彼女の度重なるうつ病による病的な状態を陰気な性格と誤解し、彼女を疎んじてきた。地方の素封家の父親は彼女に同情的ではあったが、男親が娘のこころをフォロ−し、ケアの出来る程度はたかがしれていた。彼女をとりまく環境は彼女の孤独感を深めるだけであった。”若年発症の女性のうつ病には三環系抗うつ薬に甲状腺ホルモンを少量加えると著効する”という、それまでの私の体験的臨床的推測を、彼女の治療はますます確信的にした。そのせいか、彼女の私に対する信頼は厚く、私自身も彼女に親近感を覚えた。

  ある日の診察で、直美は大学時代のアルバムを持ってきて私に見せた。アルバムの中にみえる五〜六年前の彼女はポッチャリ型の美人であった。その写真を私にみせるなり彼女は大きな瞳からポロポロと涙をこぼした。何かを一生懸命訴えようとするが、感極まり言葉にならず沈黙の時間が過ぎていった。そして、やっと開いた口から、「私はこんなに不細工になってしまったわ...私は大変なことをしてしまったの」と泣きじゃくりながら話した。私は「写真の中のあなたと今のあなたは全く一緒だよ」と、彼女の気持ちを充分推しはかることなく言ってしまった。「違うんです、私はもうおしまいです。あの手術さえ受けなければ...こんなグロテスクな顔になっていなかったのに...」と、また声を高めて彼女は泣き崩れた。手術を受けた頃、直美は商学部を卒業し、会計士の資格をとるべく勉強をしていた。そのうちに10歳ほど年上の妻子ある会計士とつきあい始めた。彼からのおこずかいで経済的に余裕のあった彼女は、より美しくという女性の願いをかなえようと、関西で最も有名な美容整形医に頬骨を削り取る手術を受けた。手術は成功し、彼女の容貌はより現代的で洗練された美人となり、彼を喜ばせたようであった。ところが、彼女自身は顔に大きな手術痕が残ったと思いこみ、自責と後悔に襲われる苦悩が始まった。私がどこに手術痕があるのか尋ねると、誰にでもある鼻孔の腹外側部にある”くびれ”が取り返しのつかない傷跡だと主張し続けた。

  直美の醜形恐怖は、持続的なカウンセリングと妄想型うつ病に対する私のとっておきの抗うつ薬療法で薄らいでいった。そして、慢性的な抑うつ気分も、彼女が紹介所を通じてついに結婚する程の回復にまでこぎつけた。始めて診察した頃と比べて、彼女の回復ぶりをみると、私は諸手を挙げて喜びたい気分であった。新婚旅行からかえった彼女は、”精神科医に通うことは夫があまりよい顔をしない”と言って、自ら治療の終了を告げ私から去った。それから二年余して、ほとんど彼女のことを忘れかけていた頃、蒼白くやつれた顔をした直美が再び私の目の前に現れた。うつ病の再発である。話を聞いているうちに、私はまたまたあきれた。それは別な形の醜形恐怖、いや心気妄想といったほうが適切な病像の出現である。結婚以来、彼女の夜の夫婦生活は数回あっただけで今は全くないという。直美は自分の身体は小野小町と同じで、苦痛が強く夫を受け入れられないと声を詰まらせた。十指にあまる産婦人科医を訪れ、ことごとく異常なしと帰され、それでも彼女はドクタ−ショッピングを続けている。また、彼女とのおつきあいが始まりそうである。

名医  平成9年1月

医療法人 和楽会
理事長 貝谷久宣