医療法人 和楽会  なごやメンタルクリニック院長

原井 宏明

 前回は、夏の経験から私の昔話を書かせていただきました。今回は、冬の経験から始めることにしましょう。私が経験した最も寒い冬は、25年前のアン・アーバーでした。

文化人類学で留学する

 岐阜大学医学部6年生の時、私はロータリー財団の奨学金に申し込みをしました。海外の大学に留学するための授業料と生活費の1年間分と旅費を提供してくれます。また海外での生活の世話をしてくれるホストファミリーも紹介してくれるというものでした。申し込みのためには、留学の目的をまとめた小論文を書く必要があります。当時、私は医学部の勉強に飽きていました。医師国家試験の勉強は「○○(発見者の名)の三徴」のようなものをどれだけ覚えているかが重要でした。私は人物名を覚えるのが苦手で、嫌いです。名前は無意味な記号の羅列にしか思えません。留学中は何か他のことが勉強したいと考え、文化人類学を選びました。教養部で一番授業が面白かったからです。留学先にはミシガン大学を選びました。授業で使っていたマーシャル・サーリンズの本では、彼の所属がミシガン大学だったからです。本音は上記の通りですが、小論文には、医学には文化人類学も必要だ、文化依存症候群というのもある、将来は心理学的人類学を研究し、文化と人格の関連を明らかにしたい、ミシガン大学は特にこの領域が進んでいるとか、いろいろそれらしくまとめて書きました。奨学金が貰えると決まったときはとてもうれしかったです。生まれて初めての海外です。もっとも、親からは、医学部を卒業したら働くと思っていた、小遣いナシ、と言われ、3月の卒業後から9月に留学するまでの間はバイト三昧でした。奨学金には観光旅行費用は含まれません。

ミシガン大学アン・アーバー校

 ミシガン大学につくとケンブリッジハウスという大学の寮に入りました。ルームメートはサンフランシスコからきた公衆衛生学修士課程のロナルドでした。アメリカの医学部とは他の学部を卒業してから入る大学院に相当するものです。彼自身も文学部を卒業後、医学部を目指していたけれど、合格できなかったので公衆衛生学の修士課程に入ったという男でした。公衆衛生学修士があると医学部入学に有利だからという理由でした。彼からも、そして周りから、医学部を卒業し、医師免許をとってから、なぜ文化人類学の勉強?研修医をするのが普通だろう?普通とは逆だ、といつも同じことを聞かれていました。9月中旬から授業が始まり、私はいろいろ勉強をするはずでした。

私のうつ

10月頃、次第に寒くなり、11月雪が降り始め、中旬には道路の雪は溶けなくなっていました。その頃、私は朝が起きられなくなっていました。午前中の授業はほとんど出ず、寮で昼頃まで寝ていました。アメリカの大学は宿題が大量です。1週間に単行本を4冊ぐらい読んで、授業で教授の質問に答えられるようになっておく必要があります。月に1回ぐらいはTerm Paperという小論文を書くことも求められます。どれもとても私にこなせるような量ではありませんでした。ロータリー奨学金という篤志のお金を頂きながら、惰眠をしている自分が情けない、と思いながら、昼過ぎに起き出していました。授業に出る気になれず、古本屋や大学の図書館に通っていました。ミシガン大学は日本学も強く、図書館には岐阜大学の図書館よりもずっと多くの日本語の本が蔵書されていたのです。アメリカに来て日本語の本を読むことには罪悪感がありました。しかも宿題の本には手がついていないのです。誰も見てはいませんが、盗み読むように急いで本を読んでいました。私の今までの人生では、この頃が最も多くの本を読んだ時期です。12月初め頃、取っていた授業のひとつに精神科診断についてのものがありました。ある日、半構造化面接を用いて学生同士がお互いを診断するという実習がありました。私の相方の男子学生は最後に真顔で、「お前、どこか受診した方が良いよ」と言ってくれました。私は、そのときまで、自分が「うつ」とは気がつきませんでした。一方、その頃は、朝が起きられるようになっていました。出席日数がギリギリになるとわかっていたかもしれません。宿題の手抜きの仕方がわかったからかもしれません。いずれにせよ、この頃から、いつの間にか、私はミシガン大学にいることを楽しめるようになっていました。ふと、気がつくと、ミシガン大学はさまざまな娯楽を大学の中で提供してくれていました。総合大学であり、どの学部も全米のトップ10に入るぐらいの大学です。音楽学部もあり、そのせいで有名な交響楽団や演奏家が学内のホールでコンサートをしてくれるのです。楽団の演奏者が大学の卒業生であることが普通で、演奏終了後に楽屋に学生が押しかけていくのも普通のことでした。クリスマスイブには、ウィーン少年合唱団の公演がありました。切符を手に入れ損ねた私が、入り口に行くと、切符切りのおじさんが、「Merry Christmas」と言って無料で入れてくれたことを思い出します。今、趣味にしているエアロビクスもミシガン大学で覚えたものです。体育の授業も卒業単位になるのですが、その中のひとつが「Dance for Fitness」でした。

心理学的人類学にはスティグマがある

 文化人類学の担当教授との個人面談で、「心理学的人類学を研究し、文化と人格の関連を明らかにしたい」と私が話したとき、教授が答えた言葉です。1960年代のアメリカでは精神分析が大流行して、あらゆる国の文化や習慣を幼児期の体験から精神分析の概念を用いて説明することがよくありました。当時は、米ソ冷戦の真っ盛りでした。そして、心理学的人類学の学者も、ソ連の政治や文化はロシア人が幼児期に受けるトイレトレーニングが原因だ、共産主義の原因は幼児期体験にあるのだ、と主張するようになりました。こうした主張は最初のうちは、面白い考え方だとして受け入れられたのでしょう。しかし、1960年代のアメリカではあまりに蔓延しすぎて、結局、行き過ぎた短絡的な理論だとして批判を受けるようになりました。そして、心理学的人類学自体が誰も触れたがらない領域になってしまったということでした。精神科診断の講義では、すでにベックの認知療法が話題になっていました。そして、隣町のデトロイトの高層ビルに観光に行くと、ちょっと変わった一団がいて、エレベーターを上ったり、降りたりしていました。話を聞くと、医師からの診断書を見せてくれて、そこには「パニック障害に対する行動療法のため、エレベーター搭乗の訓練が必要である」と書いてありました。彼女たちは、「これはとっても大切なもの。なかったら警備員に不審者と間違われてしまう」と話してくれました。エレベーターに乗れることがとてもうれしそうでした。また、そのことを見知らぬ外国人に話してくれる様子も印象的でした。このときには、私が認知行動療法を将来するようになるなど思いもつきませんでした。しかし、医学生の頃には持っていた精神分析への関心を失うきっかけにはなっていたのだろう、と思います。

寒さ

 本当に寒かったのは1、2月です。この頃は一日の最高気温が氷点下、最低気温がマイナス20度を下回るときもよくありました。外に出ると、睫毛、鼻毛が凍り付き、鼻の中がもぞもぞしました。ダイアモンドダストも当たり前の現象でした。雪はパウダーでさらさら、道路に積もった雪も手で払えばすぐなくなりました。雪下ろしする必要もありません。さぞかし、スキーには良いだろうと思われるでしょう。実際、寮の友達と一度、ミシガン州内のスキー場に行きました。ついたところはなだらかな丘でした。ミシガン州には粉雪はあっても高い山はないのでした。

Que Sera Sera VOL.55 2009 WINTER