医療法人 和楽会  なごやメンタルクリニック院長

原井 宏明

 私がまだ医学部の学生だった頃、よく、「患者から学べ」と教授から言われたものです。医者は、自分自身の病気から学ぶわけではありません。学生は医学書や論文から病理学や診断学、治療学を学びますが、そこには具体的な患者さんへの接し方や、治っていく経過、治った後の様子は書いてありません。患者さん自身の言葉、感想文のようなものは医学書には書いていないのです。たとえ、書いてあったとしても学生は患者さんの感想文から現実を想像することはできないでしょう。現実の患者さんに接したことがないのですから。

 具体的な患者さんへの接し方や、治っていく経過、治った後の様子を自分の経験や医学書から学ぶことができないとしたら、目の前の患者さんから学ぶほかはありません。言ってみれば当たり前のことです。

 医者が患者から学ぶとすれば、患者も患者から学ぶことができます。これも考えてみれば当然のことです。もっとも、これは学生の時に言われたことではありません。このことが私が知ったのは、研修医を終えて肥前療養所に就職し、アルコール・薬物依存症病棟を担当したときでした。患者さんが依存症から立ち直るためには、断酒会やAAのような自助グループで他の患者から学ぶことが最も役立つのでした。病棟では、先輩患者さんの体験談を聞くことの方が医者の話よりも、依存症の治療に役立つとされていたのです。断酒を決意するまでの苦しみや悩み、葛藤、そして、断酒を決心してからも続く悩みや葛藤。断酒を続けることによって体と社会・家族関係が回復していく事の喜び。そうした話を、実際にアルコール依存症を経てきた患者さん自身の口から聞いて学ぶことが、最も役立つ経験や学びになったのでした。医者やスタッフが百回繰り返して説教・説得することよりも、先輩患者さんが自分自身の経験をもとに生の声で語ることの方が、患者さんを大きく変えるのです。

 私は、強迫性障害の患者を行動療法で治療するようになったとき、依存症の治療経験が生かせると考えました。私が行動療法を行い、うまくいった最初の患者さんに、ご自分の経験を感想文として書いてもらうようにしたのです。その感想文を次の患者さんに読んでもらうようにすると、その患者さんは行動療法を受けようという動機づけが強まりました。実は最初の患者さんに行動療法をしてもらうまでは、とても大変なことだったのです。動機づけができるまでに1ヶ月かかりました。強迫性障害に対する行動療法は「嫌なことをわざと進んでやろう」が基本ですから、やりたくないと患者さんがおっしゃるのが当たり前です。行動療法をやると決意するまでの迷いに迷う様子を描いた感想文は次の患者さんが行動療法をするときの“壁”を小さくしてくれたのです。

 私が治療する強迫性障害の患者さんの数が次第に増え、菊池病院に移ってからは年に20人以上になりました。この患者さんたちをグループにし、感想文ではなく、直接、先輩患者さんの話を聞いてもらうようにすれば、もっと効率的に行動療法への動機づけになるだろうと考えました。

 もっとも、これが実現するためには、強迫性障害で行動療法を行って回復し、人前で話が上手で、しかも自分の病気のことを他人の前で明かしても良いと思う患者さんがいなければなりません。そういう人はなかなか現れず、私が思っていたことは数年間は実現しませんでした。ようやくうまくいくようになったのは、5年前のことです。人前で体験談を話してくれる患者さんが集まり、グループ運営を手伝ってくれる心理士さんがスタッフに加わることで、毎月1回、グループで“先輩患者さんから学ぶ勉強会”を行うことができるようになったのです。

 グループを毎月に行なえるようになってからは、今度は患者さんたち自身が自分たち自身でこのような会をしてくれると良いと私は思うようになりました。断酒会やAAは実際、患者さん自身による自助グループです。アメリカで始まったAAの場合は、「俺たちがアルコールを止めるためには、医者や病院は邪魔だ。医者が勧める依存症の治療はまるで役に立たない。自分たちで自分のために自分自身を変えていこう、他人に頼らずに自分で歩こう、そういうと気持ちが最も大事だ」というところから始まったのです。

 強迫性障害の患者さんたちもアルコール依存症の患者さんたちと同じように自分たちのセルフヘルプグループを作るようになってほしい、こんなことを願っているうちに、グループの世話人になっても良いという患者さんが現れました。

 この患者さんは不潔恐怖と手洗いが主訴の女性でした。行動療法をするように勧めたとき、彼女は「不潔やばい菌に苦しんでいる、そんな私がなぜあえて、自分や大切な子供を不潔なものやばい菌に触れさせなければならないのか?汚れが嫌で苦しんでいるのに、何故もっと汚れなくてはいけないのか?」診察では、そんな質問を何度も繰り返して、行動療法に強く抵抗する方でした。そんな彼女も毎月のグループの中では素直に他の患者さんの話を聞いてくれました。他の同じ症状の患者さんが行動療法を受けて変わっていく様子を目の当たりにし、体験談をしてくれるのを聞き、その結果、「今まで考えるだけでも恐ろしいと思っていた行動療法をしてみる」と言ってくれるようになったのでした。そして、実際に症状が良くなると、この自分の体験を世間一般にも伝えたい、自分が自助グループの世話人になって良いと言ってくれたのです。そうしてできあがったのが「OCDの会」です。

 会では最初から、いつか患者さんの感想文を集めて本にしたい、という考えがありました。患者さんの感想文が次の患者さんの励みになることは皆が感じていたことだからです。そうやってできたのが「とらわれからの自由〜不確かな未来から確かな今へ〜」です。行動療法を受けて治って行く患者さんが増えていくにつれ、感想文も増えて行き、とらわれからの自由も今年で5冊目になりました。4冊目と5冊目は、なごやメンタルクリニックで、行動療法を受けた患者さんたちの感想文です。4冊目まではすべて強迫性障害の患者さんとその家族の感想文ですが、5冊目はパニック障害や社交不安障害の患者さんの感想文も入っています。

 とらわれからの自由の中にはたくさんの印象深い患者さん自身の言葉が集まっています。その中で一つ私の印象に残る、ある不潔恐怖の女性が書いた詩を紹介させてください。

 患者さんの感想文を読み直してみると、患者さんたちはとても大変な課題を乗り越えていったのだとしみじみ感じます。行動療法をしようとすること自体が尊敬に値することです。是非とらわれからの自由を買って読んでみてください。なごやメンタルクリニックに常備してあります。

追記:私が行動療法を行った最初の患者さんの感想文はとらわれからの自由No.1のページ29からあります。この方は入院治療していた方でした。行動療法の説明をしたら、病院を無断で飛び出してしまいました。私はまだ駆け出しの医師です。病棟医長から何をしたのか?とひどく怒られました。無事、帰ってきて、行動療法をすると言ってくれた時の安堵の気持ちは良く思い出します

Que Sera Sera VOL.59 2010 WINTER