医療法人 和楽会  なごやメンタルクリニック院長

原井 宏明

愛知で有名なものといえば

2010年はイベントが目白押しでした。一生の間に1回あるかどうかのようなことが立て続けでした。二つあげるとしたら、一つは私の処女単著が出版されたこと、もう一つは行動療法学会の年次大会を名古屋で開催したことです。この学会は今まで大学の教授が大会長をすることが通例でした。クリニックの院長が会長をするのはまれなことです。私はユニークさついでに、大会長という名目で普段会えない人をお呼びし、大会でお話を伺うことにしました。愛知県が世界に誇れるもの、二つは何か?と考え、トヨタと犬山の霊長類研究所を私は思い浮かべました。

 トヨタからは、トヨタインスティテュートの吉村一孝部長に来ていただきました。これはトヨタ生産方式を世界中の人に教えるために作られた専門機関です。カイゼンという言葉が英語の動詞にもなっていて、“We kaizened many elements”(我々は各所を改善した)という文章も普通だとか、グローバル市場での各自動車メーカーのブランド戦略の話とか、普段聞けない話を吉村先生からお聞きすることができました。

作り手の都合で考えるのではなく、受け手に取ってどうなのかを考える
品質改善の基準を最初に設定し、それと現状のギャップを問題にする
仕事はすべてがチエーンのようにつながっている、どこかで問題が生じたら、全員が作業を止めて問題を顕在化させ、全員で解決の知恵を出す、問題を生じさせた人のせいにしない


 などなど、トヨタ方式の話はクリニックでの仕事にも役立つことが一杯でした。

霊長類研究所

 大会にお呼びした方の中で最も影響が大きかったのが松沢哲郎先生でした。チンパンジーのアイちゃんにコンピューターを使って言語や数字を教えたことで知られています。小中の国語の教科書にも先生が書かれた「ことばをおぼえたチンパンジー」と「文化を伝えるチンパンジー」が掲載されています。

 松沢先生は比較認知科学という研究領域を提唱しておられます。何かあるものの特徴を知るためには他の違う似たものと比較するのが一番です。トヨタの特徴を知るためには、GMやベンツと比べれば良いわけです。人の特徴を知るためには進化の隣人であるチンパンジーが最もふさわしいということになります。でも、チンパンジーの心の内を知りたいと思っても、チンパンジーは語ってはくれません。ならば、チンパンジーに言葉を教えれば良い、実際に教えて、それでどう考えて、どう行動しているのか調べてみた、というのが松沢先生の研究の骨子になります。アイというチンパンジーが1歳のころから、成長し、大人になり、仲間をつくり、母になり、老いていく、その一生を見ていく気の長い仕事をされているのです。チンパンジーは外見的には大きな黒いサルですが、調べれば調べるほど人と似ていることが分かってくるそうです。なんといってもDNAは98.8%まで共通しています。チンパンジーの側からみたら、ニホンザルよりも人のほうが近い親戚なのです。松沢先生のお話の中から印象深いことをいくつか拾ってみることにしましよう。

 人は四手動物から二手動物になった

 ほとんどの人の常識は、動物は体を水平にし、四足歩行する、人間は体を垂直にし、ニ足歩行する、です。では霊長類や人間の祖先はどうなのでしょう?チンパンジーの四肢を見てもらえば、四足ではなく、四手であることがわかります。下肢でも上肢と同じことができます。下肢で木を掴んでぶら下がることができるのです。霊長類は樹上生活者です。樹上で生活するとき、体は垂直です。人は木から下りた結果、もともとは手だった下肢を地上移動専用にしてしまい、手は不器用な足に変わったのでした。

 道具を使うのは人だけてはない

 チンパンジーも道具を使います。ギニアにあるボッソウに住むチンパンジーたちは台石とハンマーになる石を上手に組み合わせて堅いアブラヤシの実を割り、中の胚を食べます。子どもは母親の石器使用の様子を一生懸命観察し、自分も真似ようとし、5歳ぐらいになると大人と同じような石器使用ができるようになります。

 チンパンジーと人の違い

 もちろん、人とチンパンジーには違いがあります、その例の一つをあげてみましょう。チンパンジーも白い紙の上に図があるとそれをペンでなぞり書きをします。顔の輪郭が書いてある絵があれば、その輪郭を自発的になぞります。では、顔の絵があるとき、輪郭だけで、目と鼻がついていなかったらどうするでしょう?チンパンジーは輪郭だけなぞります。3歳以上の人なら目と鼻を付け加えます。チンパンジーは絵が顔であると分かっても、そこに無いものを付け加えて書くことはありません。人はそこに無いもの、虚を見ることができます。想像力を働かせれば、あたかも未来や過去が今ここにあるかのように生きることができるのです。

 四肢麻痺になったレオ

 2006年9月、霊長類研究所のチンパンジーのレオが突然、脊髄炎を起こし、首から下が全身麻痺になり、寝たきりになってしまいました。体重は57sから37s、食事は経管栄養になり、床ずれができました。幸いにして、24時間介護の甲斐あって、1年後には自ら座れるようになり、2年後には両腕が自由に動くようになりました。

 霊長類研究所のスタッフにとって印象的だったことは、最悪の状態のときでもレオがレオらしさを失わなかったことです。体重が37sになっても、相変わらず悪戯好きでした。介護者の隙をみつけては口から水鉄砲を飛ばし、驚く様子を見て楽しんでいました。先行きの見えない突然の四肢麻痺という状態になっても、過去を引きずったり、将来を憂えたりせず、今その状況で見えること、できることをします。考えてみれば首から上は自由に動き、周りを取り囲んでくれる人がいるのです。

 私が同じ状況になったら、介護者に水鉄砲を飛ばすのではなく、愚痴をこぼし、健康な人を羨み、恨みと妬みの虜になるでしょう。「このまま寝たきりでいるぐらいなら死にたい」とこぼしているかもしれません。

未来を目指し、過去を生かす

 もし楽しく幸せに生きることだけで良いならば、チンパンジーのような生き方が理想でしょう。しかし、それだけではトヨタのような車を作れるようにはなりません。トヨタは目には見えない海外のユーザーのことを考えて、車をデザインしています。そして1949年に経験した倒産の危機を忘れることもありませんでした。バブル景気のときにも、無駄なコストを許さない、乾いた雑巾を絞るという経営手法を変えず、不動産や財テクにも手を出さず、GMやベンツのような吸収合併もせず、トヨタらしい経営をつづけました。過去を忘れず、未来を憂えることは、悩みの元でもあり、人らしい進歩の元でもあるのでしょう。

Que Sera Sera VOL.63 2011 WINTER