医療法人 和楽会  なごやメンタルクリニック院長

原井 宏明

 小学校のころから作文に悩まされ続けている私です。50歳を越えて、ますます、作文の宿題が増えてきました。そんな宿題の一つに英文翻訳があります。英文和訳ならどなたでも中学1年生の時から始めているはずです。高校生のころには「基礎 英語長文問題精講」(中原道喜著 旺文社)のような本を買って試験に備えたこともあるでしょう。大半の方は、学校を卒業して、英文和訳の苦しみから解放された、これからは外人の書いたものを読む必要がある時は、誰かが翻訳してくれるのを待てば良い、と思っておられるかもしれません。残念ながら、私が英文和訳から卒業できるのは当分先のようです。一方、一見、単調な言葉の置き換え作業に過ぎないような翻訳の中にも楽しみを発見することができます。翻訳をするうちに日本語の特性に改めて気づかされることがあります。今回は、最近ようやく気づいた、そんな日本語の特性について書いてみることにします。誰でも知っている「I and You」、「私とあなた」の話です。

黄金律

 「基礎 英語長文問題精講」の表紙裏には世界の名句・名言集があり、その一つに次のフレーズがあります。新約聖書の中のマタイによる福音書7章12節です。

Do to others as you would have others do to you.

#1 自分が人からしてもらいたいと思うように、人に対してもせよ。

 著者の中原道喜は、Youを自分と訳しています。これは実は定訳ではありません。聖書はキリスト者のものなのですから、キリスト者に聞くべきです。日本聖書協会(www.bible.or.jp)で調べると、

#2 人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。(1987新共同訳)

#3 何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。 (1954 ロ語訳)

 私の中学校では、聖書の授業がありました。その時に配布された聖書では、

#4 他人からしてほしいと思うことを、あなたたちも他人に行え(フェデリコ・ バルバロ訳 1971ドン・ボスコ社)

 もし、これが試験問題に出ていたらどうなるのでしょう。#1〜4のどれが正しいか、四択だったら?中学校の英語テストだとしたら、Youは「あなた」で、Othersは「他人」だから、#4が正しく、#1は間違いにするに違いありません。しかし、大学入試ならば、#1が正しいはずです。そうでなければ受験生は旺文社に文句をつけなければなりません。キリスト者ならば、#2が正しいはずです。そうでなければ日本聖書協会が権威を失います。

うちはI

 英語を読むと、IとYouは句読点と同じ数ぐらい必ずでてきます。なにせ英語は主語なしでは生きていられないような言語です。出てくるたびに、Youは「自分」なのか「あなた」なのか、と私も悩んでいたら、さらに私を悩ませる事態に出会いました。

 今年のお正月に東京都立馬込小学校1年生の姪に会ったら、Iの意味で「うち」と言うではありませんか。去年は言わなかったのに。吉本芸人が出てくるバラエティ番組の見過ぎか?と思ったら、そうではなく、小学校の同級生皆がそういうようです。とすると、もし黄金律の東京都立小学校バージョンがあるとしたら、

#5 うちらがお友達からしてもらいたいと思うように、お友達に対してもしなさい。

になってしまいます。Youが「自分」になり、自分が「うち」になりました。中学の英語のテストでこう答えたら、流石に教師から怒られるでしょう。
 でも、実は関西弁もIとYouを混乱させることで有名です。

ある関西人と関東人の会話

関西人:自分、何考えとん?
関東人:お前の考えていることが、僕に分かるはずないだろう。
関西人:いや、ワイのことではなく、自分のことや。
関東人:『ワイ』も『自分』も、お前のことだろ?
関西人:だーぁかーぁらーぁ、自分のことやって、ゆうとるやんけ!!
関東人:どうやったら、オレにお前の考えてることを察することができるの?テレパシーでもあるのか!

 関西人の「自分」をYouに、「ワイ」をIに翻訳すると意味がわかります。

IかYouか空気で判断

 結局のところ、日本語の代名詞の使いかたは融通無碍です。どんな相手に対しても、どんな状況でもIはI、YouはYouの英語は簡単とも言えます。中国語も実はそうで、Iは我、Youは你です。日本語では、Iの意味の言葉が必要なときは、状況に合わせて、私や俺、自分、うち、ワシ、手前、僕、ワイ、おいら、を使い分けます。私の場合、「先生」をつかうときもあります。診察で小学生の患者さんが来られたときはたいてい、そうです。「先生」はYouの意味でも使います。例えば、医者同士の会話では、「You」は全部「先生」です。

#6 先生が他の先生方からしてもらいたいと思うように、他の先生方に対してもせよ。(医者同士バージョン)

 私たちは普段から日本語を使っていて、その言葉の特性に慣れきっています。日本語で話す相手にも慣れていることを当たり前のように求めています。誰でも慣れ親しんでいることが当たり前のように理解できない相手には「空気が読めない人だ」と感じることになるのでしょう。でも、「空気が読めない人だ」と感じているその当人も実は、何が当たり前の特性なのか、を言葉にできないでいることがよくあります。幼い頃から日本語を使い、中学から英語を学び始めた私ですが、最近までIとYouについての日本語と英語の違いに気がつかないでいたのでした。

 しかし、東京の小学生がIの意味で「うち」を使うのはやっぱり違和感が残ります。高校生になっても姪が私の前で「うち」と言っていたら、お年玉なしにしてやろうかしら。でも医者同士の会話で、Youの意味で「先生」を使うのも、外部の人から見たら違和感があるのでしょうね。

Que Sera Sera VOL.64 2011 SPRING