親の思いと子の願い

 今回は親の子どもへの思いが必ずしも子どものためにはなっていないお話をしたいと思います。我が子が今、親の自分に何を期待し何をして欲しいのか、逆に何をして欲しくないのかよくわからないまま、我が子のためにと思ってしてやったことでかえってその子をいらつかせ不幸にしてしまうのは昔からよくある話なのかもしれません。でもそれが最近いささか度が過ぎてきているように思えるのです。子どもの自発的な成長発達よりも親の一方的な願いや思い込みが先行しがちな時代特性があるのでしょうか。

 子どもの健やかな発達をゆがめる早期教育や受験戦争、はたまたゼロ歳児から受け入れてくれるというタレント養成学校オーディション(AERRA1997.03.31.ゼロ歳児まで売り込むママ達)、こういった子どものためというよりも大人の都合や欲望によって振り回されて心身の症状を示す子が増えてきていると、ある小児精神医学の先生は指摘しております。

 十年程前東京下町の官舎で単身住まいをしていた時の話です。夏になるとたわわに実をつけ、そのうえ緑一杯に木陰も提供してくれる枇杷や夏ミカンの木が数本生えていました。子どもたちは競うように木に登り実を取り合い、格好な遊び場になっておりました。町内掃除の後などで、取り立ての実を皆で分け合って味わうのを楽しみにしている住人も少なくありませんでした。ところがある年の夏、それらの木々が切り落とされることになってしまったのです。理由は、子どもたちが、実を取ろうとして木に登り危険であるという親達の申し出に、木登りによる事故の責任を問われることを恐れた自治会役員会で、枝払いの取り決めがあったからでした。その結果は、切り倒されこそはしませんでしたが、枝の大半を失って見る影も無くなった哀れな木々の姿でした。そしてもっと残念でならなかったのは、子どもたちに怪我をさせまいとする親の気持ちが、子どもの平衡感覚や運動機能を高め、困難に立ち向かう心も育ててくれたに違いない“木登り”という、自然がせっかく用意してくれた遊びと冒険の機会を子どもたちから奪い取ってしまったということでした。

 それだけではありません、親達は自然の草木や緑を大切にする生物や自然環境保護の精神とは全く裏腹の行為を、子どもたちの前で演じてしまったのです。

 実際親にとって、我が子が今何を一番求めているのかの見極めと、その求めにどう対応していくべきかの判断はとても難しいことなのかもしれません。

 こうしてこのコラムに書かせていただいている私自身、心の専門家と称しながら、悩みをもって訪れた少年の気持ちを殆ど汲み取り得ていなかったことに後で気付き、その子に対して済まなく思うとともに、改めて“ひと”のこころのとらえにくさに為すすべもなく立ちすくんでしまっている自分に、イヤというほど直面させられることがあります。そんな時私は、もし許されるならば、これからもその子の悩みや願いを私なりに受け止め理解していきたい、しかしその子が、このような私には話しても無駄、本当はもうここへは来たくないと思っているのであれば、何よりも先ずその子のその気持ちを重くとらえたい、そのためには、その子の気持ちや願いを今一度確かめる話し合いをさせてほしいと思うのです。そしてまたこのような場合いつでも重ねて反省させられるのは、その子が本当に伝えたい、わかって欲しいというその願いを、私の一方的な思い込みや期待によって抑えてしまっていたのではなかったかということなのです。

 子どもの気持ちをそこまで考えてしまうのは行き過ぎではないかといわれそうですが、我が子の気持ちや願いを正しくとらえることが、そのまま子どもの気持ちへの添い過ぎ甘やかしには決してならないと思います。子どもの気持ちをできるだけ理解しようと努力する親の姿勢が、より良い子育てには絶対に欠かせない要件であると思うのです。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
Que Sera, Sera Vol.9 1997 SUMMER
岩館憲幸