攻撃性について

 神戸須磨区の十四歳の少年による小学生殺人事件はあまりにも衝撃的な出来事でした。私は日頃さまざまな心の問題に関わりながら、この事件については全くといっていいほど何も語ることができませんでした。でも、動物を虐待し女子小学生を襲い、あげくのはては絞殺した男子小学生の首を切り落とすという攻撃性や残虐性を、一般の人には無縁の、この犯人だけが持つ異常で邪悪なものとして片付けてしまっていいのだろうかという思いはありました。

 夏休み直前の家族心理学の講義内容を急遽“人間の攻撃性”に変えて学生達を戸惑わせたのはそのような思いがあったからでした。

 学生達にはイギリスの精神分析学者アンソニー・ストーの古典的名著“人間の攻撃心”をベースに、どんな人の心にもある“攻撃性”の根源的な意味とその為せるものについて述べるとともに、誰しもが自らの心に潜む攻撃性や残虐性に気づき直視することの大切さを特に強調しました。アンソニー・ストーは暴力や残虐な行為をもたらすことの多い攻撃性が、実は私ども人間にとって絶対欠かすことのできない、極めて広範囲な人間行動の基礎をなすものだと述べております。攻撃的というと相手に危害を与えるようなイメージを抱きやすいのですが、“攻撃性”には知的な努力を傾けるという肯定的な意味があるのです。難問に取り組み悪戦苦闘しながらもついに解き明かすことができたとか、様々な困難や課題に直面し、めげることなく立ち向かい克服しようとしたとかの類のものは、まさに攻撃的でアグレッシブな知的活動というわけです。その一方で相手を痛めつける“いじめ”や“嫌がらせ”、“暴力虐待”がいまわしい攻撃性の為せるものであることはいうまでもありません。またスポーツ競技から攻撃性を取り去ってしまったら気の抜けたビールのようなものになってしまいます。

 このように私ども人間は誰しもが、多かれ少なかれ、かかる両面性のある攻撃性や残虐性を持っていると考えるべきで、それゆえにこそ己の心と行動への監視や見直しを怠るべきではないと思うのです。

 特に子どもに対して、将来いまわしい攻撃性を爆発させるようなことなく、本人にとっても、またまわりの人たちにとっても益となる行動を生み出させる自己統制力を身につけさせるためには、親子、兄弟など、家族関係の在り方や親の子育ての仕方がどうあるべきかがまず問われることになります。そして今、子供たちにとって一層重要性が増してきていると思われるのが、時には危険な遊びや冒険もいとわず、喧嘩もできるような遊び仲間や悪友たちとの関係であります。仲間やライバルとの生身のぶつかり合いによって喧嘩のルールや攻撃行動の手加減を自ら体得していくのです。親たちは子供たちの遊びや仲間関係にもっと関心を持ち、仲間たちとの、よりアグレッシブ(攻撃的)でしかも自立を早める活動を積極的に進めるべきだと思うのです。もともと人間の行動の原動力として欠かせない攻撃性は、生まれて間もない乳幼児にいち早く見出すことができるのです、たとえば、よちよち歩きの赤ん坊がまわりへの好奇心からいろんな物に触れたり動きまわったりする“探索行動”は、攻撃性の正常発達と自立心の育成に欠かせないものなので、危ないからといって抑えるべきではないとされているのです。そういえば親への対立や反抗が許されないまま親の思いどおりに育ってしまった結果、自ら為すべき課題に自力で取り組み克服しようとする攻撃心に欠けた、頼りない青年が最近増えてきているという指摘があります。思い当たる方は決して少なくないのではないでしょうか。

 話が途中になってしまいましたが、いずれにせよ攻撃性の発達と攻撃感情や攻撃行動の相互作用性は家族問題の中心課題となるものであり、今後機会があったらもっと具体的に考えてみたいと思っております。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
Que Sera, Sera Vol.10 1997 AUTUMN
岩館憲幸