親のやり過ぎ構い過ぎ

 今年も女子学生に”家族”についてのイメージを書かせたところ、例年ですと必ず上位にランクされる”親”が、9位に順位を下げてしまいました。

 この事から直ちに学生達にとって親の存在感が薄くなったと考えてしまうのはいささか早計というものでしょう。別の調査で学生達は、これまでに悩んだ時の相談相手としてトップの友達に次いで二番手に母親をあげているのです。

 とはいうものの、子どもにとっての親の有り様が今日ほど問い直されているのは、これまであまり例が無かったように思われるのです。そういえば相談相手に父親が登場しにくいというのがアンケートの気になる結果の一つでした。

 親が子どものために一所懸命になっているのは当然の事、でもその割には子ども達には親の有り難さや重みのようなものが実感されていないと思われるのです。

 いや、むしろ子どもに対してよかれと思ってなされる親の助けが、子どもにとって余計なお世話であるばかりか、かえって仇になってしまっているケースがとても多いように思われて仕方がないのです。子どものために必死になって頑張る母親、その母親にただ合わせる形で子どもに接するか、すっかり母親任せになってしまっている父親、それが最近よくみられる親たちの姿ではないでしょうか。肝心な時の父親の役割がきちんと果たされず、母親にだけ負担を強いる子育てがもし為されているとしたならば、父親の姿は見えてこないばかりか、子どもにとっていろんな意味ですごく不幸なことでもあるのです。

 親は、子どもに対してなによりもまず、将来誰にも迷惑をかけず独り立ち出来る知恵と自立心を育てる責任のある事をあらためて自覚すべきであります。とりわけ子どもの自立を促す役割は、父親か、父親に代わる人が担うべきものと私は考えます。

 ここで、最近相談のあった私の身内の息子A君の話をしてみようと思います。A君は幼少時近所の子と遊んでいて受けた怪我がもとで片目に視力障害をきたしてしましました。以来両親は可哀そうな彼に対し、なみなみならぬ親心で支え続けることになるのです。彼は姉と妹の三人きょうだいの長男、両親にとって掛け替えのない息子でした。父親は転勤の多い職業で、母親の郷里である地方の中核都市に居を構えてから単身赴任を余儀なくされていました。母親も早くから団体職員として働くようになりました。子どもたちを出来るだけ良い大学に進めてやりたい、その思いで二人は頑張り続けました。しかしA君はなかなか親の期待通りにはなってくれませんでした。この町では最も進学率の高い公立高校に入学しながら勉強に身が入らず、嫌いでなかった筈のスポーツ系部活も長続きしませんでした。3年進級頃から欠席がちとなり、三学期に入ると全く登校しなくなってしまいました。無理に卒業させずとも、大検でも良いのでは、というのが担任の意見でした。母親の連絡を受け赴任先から学校に駆けつけた父親は、今後一日も休ませないことを条件に卒業させてくれるよう担任に頼み込んだのでした。そして家出をしたまま友人宅に身を寄せていた息子を連れ戻し、辛うじて高校を卒業させることができました。A君は一年浪人の後、東京の有名私大に進学を果たしました。浪人中、車の免許も取得できました。大学進学には母親の強い願いが込められていたと思われます。

 本人は夜のアルバイトも行うなどして彼なりの大学生活を送っていたようです。ところが僅か一科目の単位を残したままいっこうに卒業しようとはしてくれませんでした。たまたま車の免許更新が、視力不足で認められなかったのが本人には大変な衝撃だったのかもしれません。ここでも父親が息子のために力を尽くすことになりました。大学の科目担当の先生や教務担当に、直接掛け合い、レポート提出で卒業をさせることができました。免許の更新は眼鏡を矯正、買い与えることでクリアさせました。しかし親の力が及んだのはそこまででした。

 A君は自分のような視力障害者にまともな就職は有り得ないとしてこの2月家に戻ったまま、働く意欲を全く見せていないのです。その父親から先日、彼への対応と視力障害者としての障害年金申請手続きについて相談があったのでした。父親は、自分が元気でいる限り、親として息子に為し得ることは何でもしてやるつもりだと、力ない言葉で語るのでした。

 私がその時まず思ったことは、息子のために国や人の助けを求めることも大事だが、それよりももっと大事なのは、本人自らが、今自分に出来ることは何かを見出し取り組めるようにさせてやることではないのか、本人がいかなるハンディを抱えていようとも、その当人に自助努力の気持ちを持たせる手立てを親として考えてやることが先であって、そうしてやることが、子どもにとって真に役立つ親心というものではないのかということでした。

 身内とはいいながら遠い親戚筋、めったに連絡のない人からの思いがけない相談でした。A君にも直接会ったわけではありません。本当はA君の現在の心身状態や、彼と両親のコミュニケーションがどうなのか非常に気になるところであります。とはいうものの親の子どもへの援助や支えの有り様について、改めて深く考えさせられた身近の出来事でありました。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
Que Sera, Sera Vol.13 1998 SUMMER
岩館憲幸