“感性”を見直そう

 8月12日、青森・八戸の中高校生5人がヒナコウモリ約220匹を殺した疑いで補導されたと全国紙が報じておりました。ヒナコウモリが生息していたという馬渕川は、岩手・県北の山脈を水源に八戸・太平洋側に注ぐ一級河川で、少年時代には泳いだこともあります。その川の橋に生息するヒナコウモリが少年たちのエアガンで、大量殺戮されてしまったというのです。私にとっては身近な出来事のように感じられ、少年たちのこの残忍な行為に、やりきれない思いを禁じ得ませんでした。それと同時にかかる少年たちの、というよりも我々おとなでさえしばしば見せてしまうこともある、非人間的で許しがたい冷酷無比の残虐行為についてあらためて深く考えさせられてしまいました。しかもその数日後には、愛知県碧南の小学校で飼育中の2匹のウサギが腹を切り裂かれプールに沈められているのが発見され、新聞各紙の社会面で大きく取り上げられていたのです。

 力なき弱者をもてあそび、その命をいとも簡単に奪い去ってしまう暴力性は、以前このシリーズ(我慢のできる子できない子)で指摘したように、人なら誰しもが持っている攻撃性に歯止めがかからなかった場合、どんな人にでも発現可能性のあるものなのです。ところが幸いなことに、おおかたの人たちは、よほどのことがない限り、突然切れて悲惨な事態を招くことのないよう、攻撃衝動の抑制機能を何とか働かせることができているのだと思われます。

 攻撃衝動の抑制機能は、親や周りの大人たちの直接的間接的働きかけや仲間関係における体験などで形成され身に付いていくものであります。ただしこの抑制機能が何時いかなる場合でも自ら効果的に作動するためには、さらにいくつかの条件が備わっていなければならないと私は考えております。その一つが感性の豊かさであります。「感性とは、美しさとか、命の大切さとか、悲しみとか、人情とか、そういう心的な価値を素早く感じとれるということ(遠藤友麗)」を意味しております。感性は人にとって、快い感動や生気をもたらす源として、絶対に欠かせない特性なのであります。

 抗うことのできない生き物を、いとも簡単に撃ち殺したり、むかつくからなどといって執拗に繰り返されるいじめで、仲間を死に追い込んでしまったり、公園で寝泊まりするお年寄りを汚いからと撲殺してしまう子どもたち、さらには突然切れて相手をナイフで刺し殺した中学生、そのような彼らの行為に共通してみられるのが、自らの行為の残忍極まりない犯罪性と相手が受ける地獄の苦しみ・恐怖に思いを向ける心や想像力を、全くといっていいほど欠落させてしまっていたということであります。

 そういえば昨日の朝刊は、やせ薬と称してクレゾール入り液体を同級生や教師に送った中学3年の少女について、「自分がこんなことをしたらどんな結果になるかを考える想像力が、今の子どもたちやその親の世代には欠けているのではないか」とする、非行少年の補導や少年犯罪捜査の経験の長い警視庁の捜査員のコメントを紹介し、被害者の痛みへの想像力の欠如を指摘する解説記事を載せておりました。

 相手の辛さや痛みを何よりも先に感じとりイメージさせるのが感性の働きなのであります。人間はいうに及ばず、生きとし生けるものすべてにいろいろと思いを馳せ、語りかけ、イメージをふくらませることで、この世に生きる喜びを一層感じさせてくれるのが感性なのです。その感性を子どもたちは、いや大人たちも一体どうしたというのでしょうか。

 次回は家庭における感性の育成について、もう少し考えてみたいと思っております。

    注1997年6月21日
「日本感性教育学会」設立大会基調講演より

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
Que Sera, Sera Vol.14 1998 AUTUMN
岩館憲幸