元国立環境研究所所長 大井 玄

 医学部同級生Kが最近急死したことを知ったのは、いつものとおりメール連絡網を通じてだった。

 友人の訃報がもたらすショックは、言うまでもないことだが、死者と分かち合った記憶の量と親しさに比例して強くなる。一緒に過ごしたこの時あの時。過去の記憶は、星雲の瞬きように、にぎやかだがとりとめない。

 われわれのクラスは、日米安全保障条約継続をめぐって揉めた「六十年安保」の際、国会議事堂に連日のようにデモをかけたものの、ほとんどが幼さの残るノンポリだった。彼とてもそんな一人だったが、ただ彼が立って喋ると、その混じりけのない善意と、ユーモアのおかげで、あたりは急に陽光があたるような晴れ晴れとした雰囲気になり、わたしは自分より数歳若いその姿をまぶしいように目を細めて見た。秀才であるだけでなく、気配りのある、面倒見のよい人間だったから、彼が卒業後クラスの纏め役になったのは当然といえよう。

 六十年代半ばから後半、インターン制度反対運動がきっかけとなり、激しい学園紛争が起った。医学生も卒業生も、それぞれの思想や気質に応じてというよりは、まるで熱病に罹ったように反目したり、連合したりした。学生の授業放棄・ストライキは日常茶飯事であり、学生気分のまだ残る大学院研究者たちも、学生に連帯し、ストライキを提案したりした。研究は中断され、学園を離れたものも多かった。医学部長夫人が若くて心筋梗塞で急死したのは、自宅に頻繁にかかる嫌がらせ電話のせいだと噂された。われわれのクラスが、何年か後輩のクラスのように完全に分裂しなかったのは、彼のような接着剤が在ったことにもよる。しかしそれぞれが大なり小なりの傷を負うのは必然だった。

 やがて彼も、地方のさる大学に、なんとか研究できる環境を求めて去って行き、後に神経の分子生化学的研究で名を成す。それは、私の雑駁な脳味噌の理解を超える精密で分析的な仕事だった。しかし地方で研究資金を獲得するためには、独立した若手研究者は、膨大な時間と労力のかかる生存努力を続けなければならない。社会医学という地味な分野にいた私が、やはり散々苦労した道行きだった。

昆虫の採集にはどんな魅力があるのか。採集家にはどんな性格があるのか。人間たちの俗事に関わることで、手一杯の者には、想像もつかないが、彼は一方で研究をこなしながら、羽虫の採集においても名が通っていた。羽虫というのは、せいぜい数ミリから数センチぐらいの地味な昆虫である。素人目には蚊との区別さえつかないかもしれない。人間という、ある意味で救いのない醜悪な生物との関わり合いに草臥れたとき、羽虫は宝石の輝きを示したのか。

 人生マラソンで走りつかれても、日々の出来事に溺れそうになっていても、歳月だけは無関心に過ぎていく。クラスの者もぽつりぽつり欠けはじめた。生きてはいても、生死の懸隔は縮まりつつある。慢性の肝炎が肝硬変・肝がんと進んだ者、脳梗塞で片麻痺を起こした者、二十年近く腎透析を続けている者など…不思議なことに、亡くなった者は、クラスの若い連中がほとんどで、しかも優しい良い奴であった。

(中村稔「旧い仲間たちの風景」)

Que Sera Sera VOL.51 2008 WINTER