元国立環境研究所所長 大井 玄

 今年の終戦記念日八月十五日も、晴れて暑く、蝉のなき声がかしましかった。

 敗戦の年、僕の一家は、秋田市北東郊外にある農村に疎開していた。僕は、青田の中を蛇行して流れる旭川のそばに建つ小学校の、いつも腹を空かした四年生だった。

 当時小学校は国民学校と呼ばれていた。僕のような小国民でも勤労奉仕があり、旭川の一里ぐらい上流から松の根の破片を背負い、学校まで運んだ。松材はトラックにより何処かに運ばれて行ったが、「松根油」を採り、軍事利用するのである。

 銃後を守るための奉仕は、一生懸命にしないといけない。そう信じていても、腹が空くのには参った。確かに秋田県は米どころである。しかしその恩恵は疎開者一家にまで届くことはなかった。同級生はほとんどが農家の児だから白米を食べるのは当然。僕の家では、よもぎなど食用植物を混ぜて、ご飯の嵩を増やす工夫をしていた。すいとん、雑炊は、一時的でも満腹できて大好きだった。

 

 夏休みに入ったが、宿題はほとんど出なかった。教科書や帳面にする紙も不足していた。僕は近所の同年輩の子と旭川に泳ぎに行ったり、田の水路で鯰などの魚を取ったり、気のいい小母さんに取り入って餅の類を貰ったりした。精米所で精米されたばかりの生米は、うるち米であれもち米であれ口に含むと直ちに鑑別できた。

 ぴかっと家の表が光り、ずしんという響きで体が浮いたような気がした。僕はぐっすり寝ていた。終戦前夜だった。西の方角から爆発音や対空砲火の音が続いた。三里ほど先の土崎で、石油精製施設が爆撃されているのだった。僕は姉や二人の弟と、百メートルほど北東にある鎮守の山のふもとに掘った洞窟に退避した。土崎の方では、夜空を背景に、伝説の火竜のように火炎が吹きあがっている。夜も更けてから、僕は寝込んでしまった一番下の弟を背負って家に戻った。

 翌朝、朝早くから蝉がかしましく鳴き、蒼穹をまるで二分するかのように、西に巨大な黒煙が昇っていた。朝食もそこそこに外に飛び出すと、遊び仲間が、鎮守の山続きで、さらに半キロ北にある天徳寺に、負傷兵が続々運び込まれている、と教えてくれた。同寺は、秋田藩主の菩提寺。禅宗の名刹である。

 山門の方に行くと、確かに軍用トラック何台かと軍剣着装の銃を持つ兵隊たちがいた。しかも軍装には血痕がこびりついている。寺に入るのは禁じられたので、僕たちは境内の外の田んぼ道を徘徊し、寺内のざわめきを窺うだけで満足し、村に戻った。

 玉音放送の内容は判らなかった。第一、家のラジオは、雑音の方が放送自体より、威勢がよかった。たとえ聞こえていたとしても理解できなかったろう。それで、村一番の物知りの「王さま」と呼ばれた爺様のところに行くと、何人もの大人がいて異様な雰囲気だった。戦争に負けたらしい。

 僕はなんの感想も記憶していない。あまりにも精神的に幼稚で、戦争に負けるという実感が湧かなかったのだろう。それだからこそ、後に教科書に墨を塗り、先生が手のひらを返したようにアメリカを、民主主義を賛美し始めても、大人に対する不信感を抱くことがなかった。僕は未発達・無批判で、その価値意識は未だにタブラ・ラサの状態だったのだろうか。それは、同い年でも成長の速かった妻の反応と、鮮やかな対照をなす。彼女は、教師に対する不信感を、しっかりと植え付けられたのである。

 あのときから六十三年。アメリカと日本の文化・歴史にも馴染むこともできた。自分で価値観も築いてきた。あまりにも遅いが、終戦の日に生じなかった情動を、意識できるほどには成長したのである。

 第二次世界大戦が大きな悲劇で、日本の指導者たちは致命的間違いを犯した歴史的事実は認めよう。しかし英米という「正義」が日本という「悪」に勝ったとは認め難い。それだからだろうか。私は敗戦に対し、正反対の方向の感慨を抱くのだ。

 

Que Sera Sera VOL.54 2008 AUTUMN