元国立環境研究所所長 大井 玄

 昨年94歳で亡くなられた吉沢国雄先生(佐久市立国保浅間総合病院名誉院長)は、頑固なロマンチストだった。しかも、佐久市の日本一高かった脳卒中死亡率(人ロ10万あたり340)を半分以下(150)まで下げ、佐久市男性の寿命世界一という現在にまで導いた原動力は、彼である。

 1941年、大日本帝国海軍が真珠湾に殴り込みをかけた年、彼は東京帝国大学医学部を卒業し、半年後軍医として中国に送られた。しかし敗戦の現実を受け入れられず、台湾籍と偽り、国民党軍軍医として潜伏した。だが1949年、人民解放軍の北京解放により逮捕投獄された。このように彼は自分の信念を貫いたため、1954年僚友よりだいぶ遅れて国外追放処分で帰国した。しかしそのときには中国共産党の思想に共鳴しており、そのことを表明している。つまり知的にも信条的にも正直な人だった。

 復員すると母校の沖中内科で糖尿病の研究に加わったが、5年後、長野県南佐久郡浅間町のわずか20床の国保病院院長に就任した。用意された助手の席を断って教授を激怒させるというエピソードがあったが、彼の地域医療に一生を捧げようという決心は固かった。基盤の固まっていない国保病院の院長は多忙である。地域の開業医に気を使い、医師の確保のため東京や信大病院に足を運び、当時新しく市となった役所の幹部との意思疎通を図り、もちろん臨床活動も行う。しかし彼がもっとも力を入れたのは、脳卒中を対象とした「地域ぐるみの予防活動」だった。

 私は、1965年、短期間彼の謦咳に触れたが、渡米などの事情により、佐久市健康管理センターの嘱託医として、直接そのチームに入ったのは、その15年後だった。しかしその間、佐久地方の人たちが罹る病気や死亡につながる疾患に大変化が起こっていた。かつて全国で一、二を争うほど高かった脳卒中の死亡率が、全国平均より低い値まで改善されているではないか。その間全国平均は150から160と横ばい状態であり、長野県のそれも210から280くらいでこれも横ばいに近い。佐久市のみが彼の着任以来死亡率を下げている。ではどんな活動があったのか。それはその個性と密接に関係していた。

 彼は色黒の顔に眼鏡を光らせ、恰幅よく(糖尿病持ちだった)、ややかんだかい大声でひっきりなしに喋り、熱中すると他人のいうことなどは耳にはいらなくなる。周囲の人はその熱弁と唾には辟易したが、彼を愛せずにはおられなかった。公正で私心というものが全くない人だったのである。

 彼の脳卒中予防運動は、冬に外気が零下20度近くまで下がる土地で寒冷期に脳卒中が起こることから、@「居室一室を冬期常に暖かくすること」、A高血圧の原因になる「塩分摂取」を抑えること、B血管の壁を丈夫にする「動物性蛋白」を増やすという原則に集約された。しかし運動が成功した真因は、その粘り強さと小まめにくりかえす啓蒙活動にあった。彼は佐久市の部落、いやそれより小さい地区のすべてを繰り返し回って歩いた。地区の公民館で検診を行ったあと、例の熱弁で訓話を垂れたのである。

 また、彼は美味で有名な野沢菜を塩分過剰の元凶と見なし、目の敵にしていた。ある日産地野沢部落を巡回中、菜を漬ける桶が干してあるのを見て叫んだ。「ありゃ棺桶だ!」

 熱血漢は心筋梗塞を起しやすい。彼もそれで病院に担ぎ込まれた。67歳だった。しかし病気でも、不幸でも、彼の情動を動かすとき、その芸術的感性が揺さぶられる。

 幸い回復したが、彼の体力は年と共に徐々に衰えていった。しかし院長職を退いた後も地域の保健医療活動に終生かかわり続けた。何よりも地域保健に係わる医師、保健婦などが機会あるごとにその意見を求め、彼を放さなかったからだった。

 私は仕事の方向が変わり、近年は吉沢先生の心境をその歌集を通じて窺うのみだった。例えば彼は、辛酸を舐めた昭和時代をどう見ていたのか。いかにも純真で良心的な戦中派の感慨が、次の歌に現れている。

 生きる営みは、高齢者にとって、その背負って歩む荷物の重さが次第に増すようである。

 しかし、彼には最後まで人の字型に添ってくれる、皆が敬愛する夫人がいた。

 私はここに偕老同穴を見た。共に笑う翁おうなは幸せである。

Que Sera Sera VOL.56 2009 SPRING