東京大学名誉教授 大井 玄

 物事を覚える力が無くなる。自分が、何時、何処に、何のためにいるのかが確かでない。周りの人たちが共有している「世界」との繋がりが切れてしまう。本人は「不安」という不幸な気分で一杯になる。強い不安には耐えられないから、脳は、周りには異様に見える「自分の世界」を創造するようになる。周りの人は、それを、呆けて理解不能な世界に行ってしまったという。

 わたしたちが在宅での看取りを手伝った九十三歳の女性は、しょっちゅう、その丸い背中に赤子を背負っていると思い、あやすのだった。そんなとき、世話をしてくれる娘は、自分の「母」になった。

 あるアルツハイマー病の女性が病棟から脱け出し、自分のアパートに帰ってしまったことがあった。病棟医とナースが連れ戻しに行き、「保健所から来ました」というと、自分の部屋に素直に入れてくれた。そこには市松人形が二つ寝かされていた。彼女の夫の具合が良くないから一緒に来てくれ、という出まかせの理由を言うと、彼女は疑うことなく承諾した。「ちょっと待ってください、子どもたちにご飯をあげますから」といって、人形に食べさせる様子をしたあと、病棟に戻ったのである。

 以上の二例では、自分を正常人だと思っている者たちの「視ていないもの」を視ている。だから彼女らは「鬼語」を喋り、「人間以下のえたいのしれぬもの」なのか。断じてそうではない、と今の脳科学は反駁する。

 わたしたちは、外界の事物が世界を構成していると思っている。ところが、実は、わたしたちの脳は過去の経験の記憶に基づいて世界を構成しているのだ。脳科学のひとつ、認知心理学はそう指摘する。

 例えば、今、「私は机に向かって原稿用紙にものを書いている」。これは、「私」、「机」、「向かう」、「原稿用紙」、一もの」、「書く」といった言葉と意味を記憶しているから、初めて言える状況であり、綴れる構文だ。その経験と記憶がなければ、たとえ外界に机や原稿用紙という事物があっても、何がなんだか訳、わからないのである。わたしたちは、視点を外界から脳に移さなければならない。

 同時に人は「自分が紡ぐ意味の網」を張りめぐらせた世界に住んでいる。それは認知能力の低下の有無に関らずそうなのだ。

 始めの例では、彼女が若い母親の時代に戻っているから赤ん坊を背負っているし、自分の「母親」もいる。次の例でも、二人の子どもを世話する優しい「母」の像が浮かび上がってくる。わたしたちの認知する外界とは繋がっていないものの、脳に蓄えられた経験と記憶が創る「意味の世界」という点で同じだ。

 認知能力の低下していない人でも同様である。前アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュ氏の紡いだ「意味の世界」では、彼の曰く「十字軍」が存在していて、イスラム世界でも豊富な石油埋蔵量を誇るイラクを征服するはずだった。認知症の老人の紡ぐ意味世界とはまったく比較にならないほど、非現実的で有害である。何万人もの死者、数百万の避難民が生じ、兆という金が消費され、初めて「意味の網」が破れた。

 しかも認知症の場合、周りの人が彼/彼女の意味の世界をある程度理解でき、行動療法として活用する展望さえ開けている。

 石橋典子氏がデイケアで行っているサイコドラマ(心理劇=集団精神療法のひとつ)は、認知症の人の「意味の世界」を認め、それをより愉しく、安心なものへと強化する療法ともいえよう。彼女の『「仕舞」としての呆け』(中央法規出版)では「安心できる集団の中で、主役になったり観客になったりしてドラマを演じ、自分を見つめ自分を表現していくトレーニング」と定義されている。

 サイコドラマのシーンは、「海水浴」「お迎え」などいろいろあるが、ポイントは、参加者の一人一人が「今ここで笑って、今ここで楽しんで、今ここで輝いて」もらうように工夫してあることだ。(関心ある方はぜひ同書を読まれるようお勧めする)。

 石橋さんは、日々サイコドラマを繰り返しているうちに、認知症から来る不自由さを感じないくらいに、巧みに立ち回れるお年寄りの姿が復活していくのを見て、その即効性に驚き、「この方たちは、若くして心を病んだ人より傷は浅い、まだまだいける、早くこの事実を社会に広め、認知症恐怖を払拭しなければとつよく思いました」と記している。

 彼女は、お年寄りの「意味の世界」に入っていって、愉しく安らかで笑える世界を築く作業に加わっているのだ。

大井先生は最近新しい本「環境世界と自己の系譜」をみすず書房から出版されました。

Que Sera Sera VOL.58 2009 AUTUMN