東京大学名誉教授 大井 玄

 一時期救急医療をやってきた医師として、かつては災害に際してただちに身内を走る衝動があった。よく訓練された救助犬に似ていた。3月11日の東北・関東大震災の直後もそうだったが、衝動の強さははるかに小さくなっていた。齢には勝てず、記憶の古層に想い出が沈殿するばかりである。
 
保健婦は医師より優しい

 1995年1月17日の阪神淡路大震災の後、私が専攻主任教授をしていた大学院(東京大学医学部国際保健学専攻)や東大病院からは何人もの医師や看護師がボランティアとして被災地に向かった。その中にT君という生きのいい小児科医がいた。小児科の教授に言わせると、彼は無鉄砲で負けん気がつよく、教授も辟易する類の暴れん坊だった。丸顔で色黒、つぶらな目は精桿さと愛嬌が同居していた。

 T君と私が知り合ったのは、その二年前、私のカンボジア出張の際彼が同行し、同国の子供たちがどのように生きているのか、どんな病気が問題であるのかを自分の目でみたいと頼んできたからだった。カンボジアでは、シャワーを使うとメコン川の泥水のような茶色い水が出てくるホテルに泊まった。夜、酒を飲まない彼は酔っぱらって足元のふらつく私を支えて帰った。深夜、私が目を覚ますとトイレから明かりが洩れている。ドアを開けると、彼は便器に腰掛けて、昼間に見聞した子供たちについての情報を整理していた。子供たちには観音菩薩のように優しかつた。

 さて被災地神戸に着いたT君は、保健婦と一緒に、壊滅的被害を受けた長田区の避難所に赴いた。長田区はケミカル・シューズを作る零細企業や古い日本家屋が多かったため、家屋の倒壊と火災が多く発生し、犠牲者の数は他区よりも際立って多いのだった。

 避難所は学校の体育館で、中には何人かずつグループを作って被災者たちがいた。入り口で「医療救援班として参りました。具合の悪い方がおられましたらおいでください」と呼ばわっても、みんな静かにしている。しかし彼と保健婦が一つ一つのグループを訪ねると、放置できない傷を負った人や、血圧がひどく高い人などが何人も現れるのだった。T君たちは一週間ぼど救護活動をして帰京した。

 次に再会したとき、私は彼がある種の達成感を持っているのだろうと期待したのだが、違った。なんとなく悄然としていて暴れん坊の彼らしくない。その裏には被災地での以下のような経験があった。

 避難所で彼は不眠を訴える中年夫婦に出会った。大きな災害の後不眠になるのはおかしくないから、軽い気持で睡眠剤をあげた。彼が帰るときにも何日分かの睡眠薬をあげたのだが、保健婦は「あの人たちにはあんまり薬が効いていませんよ」と言って、夫婦の体験を語ってくれた。

 夫婦は息子と娘がいる四人家族であった。木造二階家に住み、二階には夫婦、階下には子供たちが休んでいた。早朝の激震で、地域の多くの古い木造二階家では一階がつぶれた。彼らの家も崩壊したが、二階の夫婦はただちに外に出ることができた。息子と娘は潰れた一階にいたが怪我もないという。ただ梁や壁に阻まれて外に逃れられないのだった。夫婦は懸命に助け出そうとしたが、なにせシャベル一つ、スコップ一つない。そのうちに各所で火災が起こり火の手がこちらに近づいてくる。助けを求めても、道行く人とて命からがら逃げゆくばかりで親身になって手伝う余裕があるはずはない。夫婦は半狂乱になったが到底子供たちを外に出すことは不可能である。いよいよ火の手はせまり火炎の熱気が感じられて、二人は逃げださざるを得なかった。自分たちのいのちは助かったものの、夜、目をつぶると「お父さん!お母さん!」と呼ぶ情景が浮かんでくるのだった。

 「それは大変な経験だったけれど、カンボジアではもっと悲惨な情景を見ているじゃないか。しょんぼりしているのは君らしくないね」と言うと、「でも、そのことは保健婦さんには話ししても、医師のぼくにはまったく洩らさなかったのですよ」と彼は悔しそうだった。その後、彼はある大学病院小児救急センターの教授になった。

 大感謝の死

 妻の父は、プロテスタントのクリスチャンで正直な人だった。生まれて嘘をついたことがないと娘に語ったことがある。八人の子たちは一人欠けることなく成長しても、献身的な妻は数年まえに亡くなっていた。彼自身は愛煙家で肉が好物だったせいか老年期に入って大腸がんにかかり、手術後はストマ(人工肛門)が設置され、便の始末に苦労していた。

 一流企業の重役にまでなった有能な人だが、阪神淡路大震災が起こる少し前からまだらに呆けていた。おしゃべりで、相手がいないと、五人の娘たちに順番に電話をかけてくる。娘たちは在宅のときも不在のときもある。「お父さん今日は二度電話かけてきたけど、二度ともまったく同じことしゃべったの」、認知症を相手にする医師の妻である。ふんふんと根気よく聞いてあげるのだった。

 晩年、彼は長男夫婦と神戸でも淡路島の北にあたる須磨区に住んでいた。私は挨拶にうかがうと話をよく聞き診察もするので、彼のお気に入りの婿だった。しかしある時、私が相当の時間お相手をしてから辞去すると、嫁にあの人は誰だったねと尋ねた。彼女が私の名を告げると、「うん、有名な人だ」とありがたいお言葉を賜った。

 物をくれるのも好きな人であった。妻がご機嫌伺いに訪ねた後帰ろうとすると、「お前にこれをやろう」と何か探していたが、呉れようとしたものは、人工肛門に装着する便の袋であった。

 あの激震が襲ったとき、長男夫婦が住む二階建ての母屋は全壊したが、彼の住む離れはぼとんど被害がなかった。彼はガラガラッと揺れたときは地震に気が付いたろうが、数分後にはそんな凄い出来事があったことも忘れてしまう。朝、夜間電力で沸したお湯の風呂を楽しむ習慣だったが、もちろん停電で断水である。嫁に聞くと、地震のため水も電気も来ないという。彼は憤慨して言った。「そんな他人迷惑な!前もって言ってくれないと困るじゃないか」

 二日後、電気も水も使える知人の家に疎開しようということになった。長男から父がずいぶん弱っているが、移してもいいかと問い合わせがあった。私はどういう結果になっても、彼の好きな風呂には入れてあげたら良いだろう、と答えた。地震後四日目、彼は移転先で穏やかに亡くなった。最期の言葉は「マキモト・マサイチ、大感謝」というものだった。

 日本人は、歴史的に定期と言っていいぼど、頻回に大震災に見舞われている。だがその都度立ち直ってきた。敗戦と広島・長崎の原子爆弾という人災からも確実に蘇っている。危機に際して、政府の対応は常に拙劣だ。大災害は、「哀れな政府と偉大な国民」という分裂を際立させるものだ、とニューヨークタイムズ紙のニコラス・クリストフ記者は書いた。鎖につながれたプロメテウスは、毎夜肝臓を鷲に食われながらも、毎朝それを再生して生きていく。日本人もそうである。

Que Sera Sera VOL.66 2011 AUTUMN