「アゴラ会とともに歩んだ2年」

連絡係 大野 恵美子(仮名)

 平成5年8月、突然の激しい発作が私を襲った。車の助手席で、呼吸困難、冷汗、全身の硬直、そして「助けて」と叫んだ後、ろれつもまわらなくなった。病院に着くまでの時間、生まれて初めて死の恐怖に直面した。その後は、お決まりのコースでレントゲン、心電図、脳波、血液検査と調べても何も異常はなく、自律神経失調症、不安神経症などと診断された。抗不安薬を飲みながら一見普通の生活に戻れたかのように見えたが、私の心の中では、しだいに広場恐怖が広がっていった。何もかもが不安で恐ろしく、まわりの誰からも理解されることもなく、3人の子の母として、主婦として、毎日の生活が苦痛だった。精神的に追いつめられ、本屋で医学書を読みあさり、そこで、貝谷先生の「パニック障害の克服」という本に出会った。

 平成8年5月30日、貝谷先生により、パニック障害と診断されパニック障害としての治療が始まった。症状は少しずつ回復し、9月には先生より「患者の会を作りたいので、役員をやってほしい」と頼まれた。森田行動療法を勉強していた私は、即ひきうけることにした。

 平成8年10月8日、第1回アゴラ会を開催、テレビ、新聞、雑誌などマスコミでも紹介され、全国から問い合わせが寄せられ、資料が欲しいという声も多かった。平成9年6月の第3回アゴラ会開催後、会報誌を作ってみようと思い、9月にはB4両面の手作りの会報「あおぞら」第1号を発行以後、年2回のアゴラ会開催と年4回の「あおぞら」発行を基本活動とし、私はアゴラ会の窓口を務めることにした。

 平成10年2月20日、中日新聞にパニック障害が大きく扱われ、患者の会「アゴラ会」のことも紹介されたため、窓口である私のところへ電話による問い合わせが殺到した。一週間程は、家事もできない程電話の対応に追われ、家族にもずい分迷惑をかけ、私自身声が出なくなってしまった。でも、こんなにも多くの人が、パニック障害で苦しんでいるのかと思うと「みんなのためにがんばろう」と、私自身が必死になった。今、思いかえしてみると、肩に力が入りすぎていた時期である。

 今日に至るまで全国から電話、手紙等の問い合わせが千数百件「あおぞら」発行部数は、現在600部程になる。全国のパニック障害に苦しむ方々とお話をさせていただき、励まそうと思いながらも私には何も助けてあげられないと無力感に悩んだりもした。

 会報に文通コーナーをもうけることにより、会員間の交流が進むとともにトラブルも多発した。その度に「私にはもうできない。アゴラ会をやめたい」と思った。

 平成10年5月、5人の会員間でとても大きなトラブルが起こった。同じ病気を持つ者同士なのに、傷つけ合い、ののしり合い、それによりみんなパニックも悪化した。今度こそアゴラ会をやめようと泣いている私を励まし支えてくれたのは、一緒に活動してきた他の役員さんや、アゴラ会を通じて親しくなった会員さん達だった。その時、やっと気がついた。みんなから相談を受けることにより、一番癒されていたのは私。一番仲間が欲しかったのも私。一番支えられていたのも私だった。

 今、全国のあちらこちらで、ノート交換、FAX交換、文通など、仲間のネットワークが広がっている。パニック障害そのものは治らなくても、仲間同士励まし合い、支え合うことでみんな前向きになることができた。自分のこれからの人生に絶望していた人達に、生きる気力がもどった。自分がどん底だと思っていた人達も、自分だけではないと勇気を与えられた。

 そして一番人生観まで変わってしまったのは、きっと私自身なのだと思う。トラブルが起こる度に、自分の無力を思い知らされ、肩の力がぬけ、信頼できる仲間が増えていった。パニック障害になって私が失ったのは健康だけ。それ以上に信頼できる仲間や、前向きに生きる気力を、みんなからもらった。これからも私は「連絡係の大野さん」のままで、アゴラ会の仲間とともに、人生を歩んでいきたいと思う。