戦時下でパニック発作は増えるのでしょうか?

医療法人 和楽会 理事長 貝谷久宣

 ミサイルがいつ落ちてくるか知れない恐怖状況でパニックの患者さんはどのように振舞うのでしょうか?この事を調べた興味深い論文が、最近、ある米国の学術誌に報告されました。それは、湾岸戦争でイスラエルがイラクからミサイル攻撃を受けた時、イスラエルに住んでいたパニック障害患者の発作は増えたかどうかを調査した研究です。

 1991年1月17日の夜から6週間にわたってイスラエルの国民は不安な日々を過ごしました。この期間、首都テル・アビブを中心としたイスラエルの都市は湾岸戦争で18回の空襲を受けました。うちこまれたミサイルの総数は38発で、それこそ国民の間にはパニック状態が見られたのではないかと思いますが、この地は戦争多発地帯で平時からその準備を怠ることはなかったようです。市民は、空襲の間、毒ガスが入ってこないようにシールされた防空壕に入り、ガスマスクを装着するように訓練されていました。この防空壕の中には、ガスの毒消し注射や食料・水が備蓄されていました。空襲になるとこのような窮屈な部屋に15分から数時間は避難をしなければならなかったようです。このケセラセラの読者の中にはガスマスクをするとか密閉された部屋への避難をしなければならないと聞いただけで発作を起こしそうな患者さんがいると思います。

 さて、パニック障害患者に対する調査は開戦後まもなく始められました。開戦して4週間の間に、53名の女性と12名の男性患者が電話でインタビューを受けました。総数65名の患者が質問を受けましたが、そのうち16名の患者はテル・アビブ地域に住んでおり、空襲を受ける回数が多い人たちでした。質問の内容は、戦争になってからの病状の変化、服薬状況、日常生活の全般的状況、空襲警報中シールドルームにいたか、ガスマスクはつけたか、警報中のパニック発作の有無、警報中の不安の程度と行動、戦争開始前後の1週間あたりの発作数などでした。その結果、戦争前と戦時中のパニック発作回数を比べると、それぞれ週に平均0.53回と0.68回で統計学的な有意な差はありませんでした。空襲によってパニック発作が増えたという事実はなかったのです。空爆の激しい地域と激しくない地域を分けて調べてもパニック発作が増加することはありませんでした。しかし、テル・アビブを中心とする空襲の危険度が高い地区に住む患者は、空襲の危険度の少ない地区に住む患者に比べて空襲警戒中はむしろよく働いたことが明らかになりました。

 パニック障害の患者さんは恐怖状況下で発作の増加はないということがわかりました。これは、恐怖状況を患者一人ではなく集団で連帯して受け止めるからだという意見が論文の中にみられました。しかし、筆者は次のような理由でこの考えには賛同できません。筆者の経験では、妊婦の患者さんが出産という恐怖感の強い状況下で発作を起こしたということを聞いたことがありません。妊娠してから出産するまで出産に対する予期不安を強く持つ患者さんにはよくお会いします。出産が恐ろしいから絶対に妊娠しないという患者さんにもまれならずお会いします。しかし、一旦、陣痛が始まったらもう恐ろしいとか不安だといっているような余裕がないのではないでしょうか。ですから、一人で恐怖状況を体験してもパニック発作が増えるということはないのでしょう。昔から「案ずるより生むが易し」とはよく言ったものです。

 この研究の結果で、もうひとつ特記すべきことがありました。それは空爆の激しい地域の患者のほうがそうでない地域の患者に比べて、空襲時の働き具合がよかったということです。パニックの患者さんはいざとなってしまうとむしろ開き直って力が出るのでしょう。このことを如実に筆者に教えてくれた患者さんがいます。

 Mさんは50歳を過ぎパニック発作はほとんどありません。頑固な広場恐怖が残っているだけです。それでも最近はかなりよくなられて京都の娘さんのところや東京の息子さんのいるところまでご主人と一緒ではありますが、行くことができるようになりました。Mさんは、小さいころから体が弱く人一倍自分の健康に気を使う人でした。結婚してからも些細な体調の変化であっても心配でたまらず、すぐかかり付けの内科医に走る人でした。年末年始は医療機関が休みになるから不安だという理由で、秋の定期健康診断をもう何十年も恒例行事としていました。ところが、ところがです。こんなからだのことが心配でたまらないMさんに肺がんが見つかってしまったのです。ご主人が病名の告知をどうしようかと相談に来院されました。薬剤師であるMさんに病名を隠しつづけることはできないだろうという結論になりました。それから数日してMさんから筆者に電話が入りました。彼女は意外にけろっとした口調で、甘えたことも、泣き言も、心配事も一切述べることなく、自分の今後の治療計画を落ち着いて話してくれました。筆者のまぶたには、このとき、Mさんの面影と勇敢に戦場に向かう戦士の姿がダブりました。Mさんが元気に退院してくるものと筆者は信じています。

 不安と恐怖の違いは何でしょうか。不安は対象のない恐怖です。恐怖では恐さの原因が目の前に具体的にはっきりと存在します。パニック障害の患者さんは中途半端なわけのわからない状態の恐怖には弱いのです。すなわち、何か恐ろしいことが起こるのではないかという予期不安は大変強く持ちます。しかし、ひとたび、不安の対象が目の前にはっきりと存在してしまうと、むしろ度胸が据わってしまうのではないでしょうか。そして、それに対する対抗処置をむしろ不安症でない人よりも手際よく講ずることができる人が多いのではないでしょうか。予期不安のるつぼから抜け出して、さあ、恐怖に突入だ。電車も地下鉄も乗ってしまえば恐くないのです。