パニック障害と出産の手記
N.S

 1998年の夏、やっとの思いで日本に帰国しました。中国は上海に、主人の赴任にともなって、付いて行きました。パニック障害と診断されていましたが、当時診ていただいていた先生には、「あなたの気持ち次第で、姿勢を正してちゃんとすればすぐに病気は治る」と診断され、薬を送ってもらってはいました。しかしながら、きちんとした治療も受けずに、狭い日本人社会のなかで、どうしていいかわからず、ひたすら八方美人になって気を遣い、病気は悪化する一方でした。

 とにかく何とかしなくてはと思い悩んでいたところ、主人がインターネットで発見した赤坂クリニックのホームページを見て、もう頼れるのはここしかない、と藁にもすがる思いで、国際電話で予約をし、帰国しました。結果的に主人より1年早い帰国となりました。すぐにK先生の診察を父同伴で受診し、3ヶ月はあなごもりしなさい、ひたすら眠りなさい、とのご指示をあおぎ、私のパニック障害の本当の治療が始まりました。

 とにかく、薬が効いているので、眠りつづけました。複雑な人間関係や、余計な気を遣うことのない、今までとはまるで別の生活になりました。今にして思えば両親も、1度嫁いだ娘が実家に帰ってきて、昼夜を問わず、ごろごろと眠ってばかりいるのを見て、ご近所や親戚の手前、気まずい思いや歯痒い思いをしていたと思います。特に母自身はガンを1年前に再再発し、私も一時帰国して看病をしたくらいで、見た目は元気でしたが、いつまた転移するか分からない状態でした。

 そんな母に3度の食事はもちろん家事もほとんど手伝わず、ただごろごろ眠ってばかりいる私に、多少なりとも荒立ちを持ったと思いますが、それでも許してくれました。実家は、疲れきった私には、それこそ産まれる前の、母のお腹の中に居るようなもっとも安心できる場所でした。

 3ヶ月たって、少しづつ外出したり、読書をしたり、と普通の生活へ移行していきました。主人とも初めは、国際電話やファックスでのやり取りをしていましたが、お金がかかってしまうので、実家に眠っていたパソコンを使ってメールでやりとりを毎日欠かさずするようになりました。でもK先生からは家族以外の人と会わないようにとのご指示がありました。でもずっと母と一緒にいるのですから、ときに喧嘩することもありましたし、いつになっても上海に戻らない私を内心本当に心配してくれていたと思います。

 私の病気治療のために、精一杯理解をしてくれたことを、今にして思えば感謝していますし、神様がくれた貴重な時間だったと思います。主人は2回くらい一時帰国しましたが、あまり刺激の強くない水族館やテーマパークに一緒に行ったりしました。そのころには、決まって1日3回激しく動悸に襲われるパニックも、ほとんど感じないようになっていました。先生のご指示で主人の実家には挨拶にも行かなかったし、全くずうずうしく、嫁としての自覚のないあきれた存在だったと思います。でも結果的にはそれが、回復への近道になりました。

 主人の本帰国が決まったころ、私はかなりの回復期に入っていました。また上海に行って、また複雑な人間関係に戻って、せっかくの治療が台無しになっては、と私はもう上海には戻らず、引越しも全面的に主人に任せることになりました。私も主人の帰国にあたって、マンション選び、家具等の準備をしながら、心の中で、あきらめかけていたあることが、浮かび上がってきました。「赤ちゃんが欲しい」、と。

 せっかく時間があるのだから、と、不妊検査をうけ、基礎体温を付けはじめました。検査自体も特に異常もありません。そして待ちに待った主人の本帰国。主人と早速赤坂クリニックへ伺い、K先生との診察を受けました。「やっと帰国して、突然のようですが、子供を作ってもいいでしょうか?」。K先生は満面の笑顔で「どうぞ…薬も妊娠しても安全なものを出します」とおっしゃっていただき、夢に1歩近づきました。結局1年間お世話になった実家を、感謝しつつ後にしました。両親も夫婦は一緒に暮らすべきであるという考えをずっと持っていたので、喜んでくれました。

 そして…2ヶ月後の1999年12月に、妊娠しました。天にも昇る気持ちで、おめでたが分かったその日に、私の両親と主人とみんなで食事をし、お祝いしました。ケセラセラのパニック障害と妊娠の特集もいただいていて、妊娠がきっかけで病気が軽くなる、回復に向かうとかいてあったの、主人は安心していたようでした。

 でも実際は大違いでした。ひどいつわり、母親になってパニック障害でも五体満足の赤ちゃんを産めるのだろうか?出産はどういうふうになるのか?なによりちゃんと一人前の母親として子供を育てていけるのだろうか?本当に次々と私に不安が襲いかかってきました。某総合病院の産婦人科にかかったのですが、パニック障害の患者をみるのははじめてらしく、また私が飲んでいる薬は産婦人科の薬としてはすべて禁止薬ばかり…。とても熱心で優しい先生でしたが、私がひどいつわりや、不安感に満ち溢れているのを診て、疑問に思いはじめていたようでした。

 そしてついに、1月のとある日、検診の後、午後母と一緒にまた来るように言われました。私はもう不安で大パニックに陥りました。そして、「この病院でなく、本院の24時間精神科のある病院で転院したほうがいい、上の先生方と相談して、転院を決めました。赤坂クリニックでなく、本院の精神神経科で出産までお世話になったほうがいい」と言われました。わたしは反射的に、「この実家に近い病院で産みたい、K先生から離れるのは絶対に嫌だ」と、それこそ幼稚園生のように号泣しました。

 今にして思えばそれこそ大パニックで、とてもこんな患者さんを診ていくことは出来ないと言う決定打になってしまった気がします。最後まで懇願しましたが、「泣いてばかりいて、あなたも母親になるんでしょう。」、そして同席していた母を見て、「お母さんも大変ですね。ほらお母さんもずーっと生きているわけじゃないんだからもっとしっかりしなさい。」と担当のお医者さまに言われ、転院せざる負えなくなりました。

 K先生にも診察のたびに泣いて不安や不満をぶつけ、大変ご迷惑をお掛けしました。時には先生の背広にしがみついて放さなかったこともありました。あまりに興奮しているので、診察の後、別室で眠ったり、その日先生がおっしゃったことを紙に書きなさい、と叱っていただいたり、本当にご迷惑をかけました。なんとも情けない母親の卵でした。

 転院して…。

 妊娠5ヶ月に入った頃、私は、K先生の紹介状を持って、初回のみ主人同伴で本院に転院しました。紹介された産婦人科の先生は、あらかじめ私のことを聞かされているせいか、とても熱心に他の患者さん以上に優しく、私に接っしていただきました。この先生との出会いはとても大きく、同病院の神経科の先生には、処方箋を間違えられたり、今ひとつパニック障害で出産のために転院してきたのに3分くらいの形式的な診察で、何か薬のことや困ったことがあると、「産婦人科に相談しなさい」と言われて、産婦人科のほうに相談すれば、「神経科のほうに聞かないとわからない」と言われたりで、思うような治療は受られませんでした。

 じつは3ヶ月ほど実家にまた里帰りもしました。つわりがひどくパニックもひどい私は、実家で食事を作ってもらい、ひどいつわりの時期に全面的に母に頼る形になりました。

 つわりがおさまって主人の元に返ったのは4ヶ月の終わりくらいの安定期でした。そのころにはパニックも治まりつつあり、のんびりとしたマタニティーライフを過ごしました。服薬していることを除けば極々普通の妊婦でした。パニックはありましたが、主人とデパートに買い物に行ったり、おいしいイタリア料理を食べにいったりと、しばし穏やかな日々が流れていきました。

 ところが7ヶ月の終わり頃、出血してあわてて病院に行くと、絶対安静を言い渡されました。結果的には、切迫早産ということになり3度入院しました。パニック障害だからとなかなか出してもらえなかったお腹の張り止めの薬(副作用で動悸が激しくなるため)も、飲まざるを得なくなりました。食事と入浴以外は絶対安静の条件で退院しましたが、帰ったのは又しても実家でした。

 微弱陣痛が続き、痛みで2時間くらいすると起きてしまうほどでした。1日最大10錠のウテメリンというお腹の張り止め薬を飲んで、ただただじっとしていました。

 何度も陣痛が来たと、夜中に車を走らせてもらって、病院にいっても、結局は何も無く帰ることもしばしばでした。最後はもうお腹の張り止めの薬は飲まず、自然に出産をしたいと、自ら望んで個室に入院させてもらいました。それから2日後の夕方から本格的な陣痛が来て、両親、主人が駆けつけてくれました。今度は本格的な陣痛でした。母は私の手をずっと握り、陣痛の間隔がどんどん短くなる私に付き添ってくれました。

 母に、「痛いとは言わずに、出産する」と約束をして、分娩室に入り、2000年7月26日、PM11時43分に無事五体満足の女の子の赤ちゃんを出産しました。予定日は8月18日だったので、3週間も早い早産でしたが、3000グラムを超す赤ちゃんでした。

 出産はもう必死で先生や助産婦さんの指示に従って何もかも忘れていましたので、
もちろん精神科の先生が付き添ってくださったり、いらっしゃったりすることもなく、極々普通の安産でした。結果的に、転院して良かったことは、とても熱心に優しく接してくださった産婦人科の先生にお会いできたことでした。いざ出産となると産むことに必死で、パニックのことなど吹っ飛んでしまいました。

 でも、赤ちゃんは、低体温で、呼吸が浅く、ミルクもあまり飲みませんでした。服薬していて、おっぱいをあげることはできないので、おっぱいをすぐ薬で止めました。小児科の先生から、「私が出産直前まで飲んでいたリボトリールのせいでは。」とおっしゃられ、一緒に退院することは出来ないかもしれないと、一旦は言われました。

 前々から主人と相談していたことがありました。主人の母に、孫の顔を見せてから、思い切って、私がパニック障害であることを告白することでした。私も主人も、もう隠さずに、ありのままに、私の病気のことを知ってもらう良い機会だと話合って決めていました。そして、新生児室で、元気に泣いている赤ちゃんを見せたあと、ついに、告白しました。出産間際まで飲んでいた薬のせいで、ひょっとすると一緒に退院できないかもしれないことも話しました。涙でぐしゃぐしゃになった私に「もっと早く話してくれれば良かったのに…」と義母は言ってくれました。

 義母は、今まで勝手に主人の世話もせずに帰国し、挨拶にも行かなかった私を許してくれました。とても緊張したけれど、いつかは、ありのままの自分を知ってもらいたかったので、有り難く、また、ほっとしました。

 担当の先生の配慮でしょうか?看護婦さんも私がパニック障害であることを知りつつも、本当に親切に優しく接してくださいました。ミルクを飲む量が少なく、母乳でない母親は私一人だったので、本来大勢で、受乳室で世話をしなくてはならないのに、私と赤ちゃんだけを、新生児室で、ミルクをあげるこつなどを手取り足取り一から教えてくださいました。

 私の実家の家族構成や、一緒に退院できないかもしれないと言われて落ち込んでいた私に配慮して、赤ちゃんの健康状態もまめにチェックしていただき、万全の受入態勢があること、退院1週間後に赤ちゃんの診察を受けることを条件に、赤ちゃんと一緒に退院することを許可してくださいました。

 産褥鬱(さんじょくうつ)に襲われて…。

 退院してから、本格的な育児がはじまりました。2、3時間おきにミルクをあげなければならず、たまたま夏休みを取ってくれた主人と実家に里帰りした私は慣れない子育てに必死でした。気持ちは、あんなに無事生まれた赤ちゃんを愛とおしく思っていたのに、今度はなぜか落ち込んでいく一方でした。

 どんどん痩せていくし、母親としての自信も失い、隣に寝ている主人の顔が紫色に見えたり、テレビのブラウン管に写る人(SMAPのキムタクでさえ)が不気味に見えました。産後の体調も優れず、赤ちゃんと退院して、1週間後、病院に赤ちゃんの血液検査の結果などを聞きに本院へいったとき、小児科で、激しいお腹の痛みと気分悪さで倒れてしまいました。そして、産婦人科の先生のご指示で、結局神経科のベッドに連れて行かれ、そこで初めてひどい精神状態だということがわかりました。時間外で、当直の先生に診ていただきました。とにかく切迫早産の痛みで睡眠がとれなかったし、産後もほとんど眠ることが出来ない状態が続いていたので、とにかく入院するか、夜のミルクは、両親や主人に頼んで、今日は眠ったほうがいいと言われました。

 正直ほっとしました。とにかくもう生きているのも嫌だと思うくらいひどい鬱状態だったのが、両親、主人に理解してもらえて有り難かったです。

 そして主人に赤坂クリニックへ私の代わりに行ってもらいました。今までの経過を、何とかパソコンで書いて、プリントアウトしてファックスであらかじめおくってもらったので、K先生の適切なご指示がでました。

 とにかく処方した薬は必ず飲むこと。夜は赤ちゃんのミルクは頼んで、睡眠薬を飲んで熟睡すること、昼間は出来る限り赤ちゃんの世話をすること、などでした。

 このひどい状態がまさしく産褥鬱だったのです。

 それから両親、主人が、代わる代わる夜中はローテーションを組んで赤ちゃんのミルクなどの世話をしてくれました。テレビや鏡をまともに見ることができなかった私が日を追う毎に、落ちつきを取り戻し、体重も元に戻りました。前から用意しておいた育児日記をつけたり、写真を撮ってはアルバムに貼ったり、葉書で無事女の子を出産したことなどを友人に送ったりする余裕も出てきました。

 そして本当に元気な自分を産後2ヶ月くらいで取り戻すことが出来ました。ずっと、K先生の処方通り服薬し、診察も受けに行けるようになりました。

 しかし依然として夜はしっかりと眠りました。私は世の中の母親がやっている大変な夜の赤ちゃんの世話をしませんでした。父も母も、出産までもいろいろあり、産後はいつになっても里帰したままの状態の娘をよく許してくれたと思います。

 結局実家の母に近いところで子育てをしたい、母の側を離れたくないと言う私の希望を、両親そして主人が受け入れてくれて、2000年11月に実家から1分もかからないマンションに引っ越しました。

 引越し後も、夜中は主人が赤ちゃんをみてくれました。昼間働いて、夜は何度も起きる生活を主人は真面目にやってくれました。

 そして、私は赤ちゃんが元気に夜ずっと寝てくれるようになって、やっと普通の母親として、育児に専念できるようになりました。

 実家からスープの冷めない距離にいるおかげで、とても安心して、リラックスして育児が出来ました。母は本当に孫を目に入れてもいたくないくらいかわいがってくれました。わたしもママっ子でしたから親子3代仲の良い幸せな日々でした。この日々はずっと続くと、信じていました。

 けれど、そんな幸せな日々に、突然終止符が打たれました。

 母はとつぜん高熱をだし、そのまま入院、翌日の2001年11月19日夜、私一人が看取る形で、天国へと旅立ちました。2日目の徹夜で眠気におそわれる私を最後まで心配して、気遣うように…。長く患ったガンとはずっと戦ってきて、いつも退院して元気になってくれた母は、回りを煩らわすこともなく旅立ちました。獅子座流星群の流れる夜でした。ママっ子だった私にちゃんと別れを告げてくれたのだと思います。人生でもっとも悲しい出来事でした。

 そして、いま私は、いつも心の中で母と一緒にいると信じて、育児に専念する日々です。赤坂クリニックへは2週間に1回通院しています。(その間だけおばに子どもをみてもらっています)色々な儀式も一通り終わり、今はとにかくしっかり家事と育児をすることで、気持ちをコントロールしています。

 閉鎖的な日本人社会、スモールジャパンそのものの、煩わしかった上海の人間関係と違って、幸い今住んでいるマンションは、皆適度な距離を置きながらも仲が良く、お互い子どもを持つ者同士助け合い、毎日午前中と夕方にマンションの敷地内で子どもを遊ばせています。1才半になる娘にもいい刺激であり、親子で楽しんで、いい気分転換になっています。

 母なしでは生きていけないと、思っていた私も半人前ながらもなんとか日々、パニック障害であることを受け止めて、かわいい我が子と主人と3人で暮らしています。パニック障害であることは、極少数人の信用できる長年の友達にしか打ち明けていませんが、今は病気であることを受入れつつ日々過ごしています。
私は、特別恵まれているケースかもしれませんが、パニック障害でも出産できるし、育児も色々な人の手助けはございますが、出来るということを身を持って体験したことを伝えたく、拙い文章でありますが書かせていただきました。これから、パニックを持ちながらも出産を考えている方、迷っている方の参考に、そして勇気づけになればと思います。

 ずっと助けてくれた亡き母に捧げたいと思います。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.28 2002 SPRING