身体と心

医療法人 和楽会 理事長
貝谷 久宣

 先日、ある禅僧の話を聞く機会がありました。その高僧によれば、曹洞宗では身体の修行により悟りの境地に向かい、臨済宗では心の鍛錬から悟りに向かうのだと言うことでした。曹洞宗の本山である永平寺を訪れると、若い修行僧がきびきびとした立ち居振る舞いで仕事をしています。永平寺に入山すると、起床から就寝に至るまで厳しい戒律のもとに行動が制限されます。洗面の仕方から箸の上げ下ろしまで一挙一動が細かい規則に縛られています。日常のすべての行動が修行なのです。もちろん、只管打座、ひたすらに座禅をしているあいだに肝が座り、腹ができ、やがては悟りの境地に達するというものであります。一方、臨済禅では心から修行にはいると言われている。公案といわれる難問が師匠から問題提起され、それを何日も何日も考え続け工夫して解決します。公案の中でもっとも人口に膾炙されているのが「隻手の声」です。すなわち、両手を打てば音が鳴ります。片手を打っても音は出ない。その片手の声を聞いて来なさいというのが問題です。この種の設問の解答は常識的な思考形態で得られるものではなく、全く異なった次元にはいることにより達成できるとされています。曹洞禅では身体から、臨済禅では心から悟りに向かうのですが、結局、どちらから入っても到達点は同じであるということです。すなわち、心と身体は不即不離、身心相関ということです。

 パニック障害は心身相関の不安の病です。症状は身体面にも精神面にも生じます。しかしその根幹は不安であり、身体症状は不安による自律神経の症状です。自律神経はからだの隅々まで張り巡っているから、身体のいたるところで症状の出る可能性があります。米国のパニック発作の診断基準では10の身体症状と3つの精神症状が記されています。この3つの精神症状の中に現実感消失と離人症状があります。このパニック発作に見られる精神症状は、不安感が余りにも強く優勢であるので、不即不離の心身のバランスが乱れて心身がばらばらになっている状態です。現実感消失では、“甘い辛いは分かるがうまいと感じない”“晴れ渡った空と緑さわやかな山を見てもすがすがしいと感じられない”などと訴えられます。個別の身体的感覚ははっきりしているのであるが、全体的精神的感覚−感情−が失われた状況である。離人症では、“自分が自分でない感じ”“歩いているのだがフアフアとして現実感がない”“もう一人の自分が自分を観察している”などと訴えられ、身体的運動感覚の自己所属感がなくなった状況がみられます。離人症を持つ若いパニック障害の女性患者さんにリストカットが見られることが時にあります。現実感がなくリストカットの痛みで何とか現実感を得ようとしたのだと言うのです。この場合も、心と身体のバランスが不均衡となり、これを穴埋めしようとする行動であると理解することが可能かもしれません。この離人感は、人が死んでいくときに経験される幽体離脱とほぽ同じであろうと考えられます。自分の遺体を囲んで子供たちが悲しみに暮れているのを天井から見ていたと、死から回生した人が陳述することがあります。この場合も、身体機能よりも精神機能のほうが優勢で、心身相関のバランスが崩れてこのような状態が生じるのでありましょう。

 何年も何年もの間不安で不安でたまらない状態を経験している患者さんは結構多いと思います。パニック障害患者のもつ不安は健常者が経験することのない病的不安です。すなわち、理由のない不安を持つのです。このような慢性的な不安を持つ患者さんを診ていると、別な意味で心身相関の均衡状態が崩れていたのだなと考えさせられるケースがあります。Aさんは、茶碗焼きを始めとした豊富な趣味をもち、センスのある着こなしが身についた50台半ばの主婦で、2年前から通院されていました。パニック発作が初発してから30年近く経っているので、最近は激しいパニック発作は全くなく、上記の理由のない浮動性不安と頭が重いとか胸がなんとなく苦しいといった非発作性不定愁訴だけがありました。副作用が出て服用できなかったSSRIが少しずつ服用できるようになり、症状はかなり改善してきていました。ところが、ある日ご主人が患者さんの代わりに診察室に来られました。理由を聞くと乳がんが見つかり入院されたということでした。パニック障害患者さんの多くは、たいしたことのない身体症状を大げさに考え、重大な病気をあれこれと心配するというのが常であり、Aさんも乳がんを気にして非常に落ち込んでいるのではないかと心配しました。ところが、筆者の想像に反して、Aさんはけろっとして入院生活をされているそうです。今まではわけのわからない病気で悩んできましたが、今度は身体の異常がはっきり出ているので、不安はそんなに強くないということでした。癌−死に至る病を得てもAさんは泰然自若として闘病生活を送られている。一体これはなんということでしょうか。Aさんは癌という重大な身体疾患を目の前にして、驚き、怖れ、臆病といった精神的な弱さを一掃して、自己本然の心に目覚められたのだと私は思いました。酷な言いかたかもしれませんが、身体的に重篤な病を得て、ある意味で心身のバランスが得られたのかもしれません。

 パニック障害にかかる人は「死」に対して敏感です。以前にも書きましたが、パニック障害は死を過度に恐れる病です。軽い身体的な不調を感じても、、救急車のサイレンの音を聞いても、サスペンスドラマをみていても、すぐ死を連想してしまいます。しかし、死は誰にも確実にやってくる、避けては絶対に通れない人生の道であります。禅は本来「生死の教育」といわれ、「死」に直面することはどの人間にとっても大きな問題です。幼時より地獄におびえ、仏道に入った禅僧も少なくありません。禅者の多くは、死を恐れおののく心を処するのは、Aさんのように真正面から一度「死を見つめる」ことから始まるのだと説いています。死について深く深く考えてみる。その中から「生の充実」の必要性が生まれ、より良く生きる人生が始まるのかもしれません。私のような平凡な暮らしをしていると、「お陰様」を忘れ、すべてが当たり前に思えてきます。生かされていることを忘れないようにパニック障害患者さんとともにこれからも生きていきたいものです。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.32 2003 SPRING