パニック障害発症の周辺

医療法人 和楽会 理事長
貝谷 久宣

 パニック障害は不安の病である。理由のない不安や、理由があってもその程度に見合わないほど強い不安が生じる病気である。その病的不安の直接的で具体的な原因や理由は表面的には認められない。しかし、患者さんの生活史を垣間見るうちに、“ああこの患者さんはこんな大変な状況で長いこと苦しんできたのだ”となんとなく納得できる。このように多くの事例を観察していると、パニック障害の発症にはストレスが大きな役割を果たしていることが実感される。しかし、なかにはさほどストレスが有った様には思われない事例にも時に遭遇する。このことは、病気は外因と内因との相互作用で発症すると言う精神医学の旧来からの考え方で説明される(図参照)。外因が強ければ内因はさほどなくとも発病し、反対に内因が非常に強ければ外因なしでも発病すると言う相互関係であります。外因とは一般的には、環境的な要因とか外傷や身体的病気を言い、内因は体質または遺伝的素因と考えられる。外因は言葉を変えて言えばストレスであります。ストレスと一口に言っても、心理的・精神的ストレスも有れば気温・気圧・湿度といった天候や疲労・空腹といったより身体的なものもあります。この図から言えることは、家族にパニック障害があるような人は外因、すなわちストレスがさほど強くなくとも体質的にパニック障害を起こしやすい人です。ここでストレスの影響を強く受けて発病したと考えられる事例を紹介しましょう。

 Aさんは31歳の主婦でした。1カ月前に離婚しました。夫はそれは優しい超エリート官僚です。妻の誕生日にユリの花を買って帰宅したことがあります。しかし、A子さんは、激怒して花を投げ捨てました。わたしが匂いに敏感になっていることをしっていてユリの花なんぞを買ってくるとはわたしのことを少しもわかってくれていないと泣き叫びました。夫はそれは悪かったとA子さんにあやまりました。こんなやさしい主人と彼女は離婚する決意をし、実行しました。しかし、彼女はまだ夫と一緒にくらしています。この離婚は戸籍上だけのものだったのです。言葉を換えて言えば、彼女は夫の実家B家と縁を切りたかっただけなのです。A子さんがパニック障害になったのはB家と彼女の間の困難な問題が山積していたからだと彼女は言います。エリートを育てた義母は形式にこだわり、とても口うるさい人でした。義父は多くを語りませんが、頑固な銀行員でした。夫の姉と妹は二人とも伝統ある女子大を出て事あるごとに嫁のA子さんの学歴の低さを蔑むことに遠慮はありませんでした。こんな針のむしろにおかれた生活が5年続いたある夏の日に彼女はパニック発作を起こしたのでした。発作を起こしてからは夫はAさんに苦労をかけてきたことを十分に承知していましたから、彼女の多少の我がままも許してきました。今回はその最大のものでした。離婚をしたA子さんはさっぱりした表情でクリニックに通ってきます。あれほど頑固であったうつ状態も次第に霧が晴れるように薄らいできています。パニック障害の半数の患者さんは大なり小なりうつを発症します。昔からうつ病は因習的な家族の間から出現することが多いと言われていますが、A子さんのパニック障害に伴ううつ病は家格の圧力によるストレスから生じたと言えるかも知れません。先祖代々、家柄、血筋、などという言葉が飛び出してくる雰囲気は個人の尊厳をしばしば踏みにじり、人間の幸せを台なしにするだけでなく、心の病気をも引き起こします。パニック障害は女性には男性の3倍も多い病気です。そしてその発病状況は、21世紀になってもまだ夫の実家からのストレスーとりわけ、姑ー嫁問題が最も多いように思われます。盆や正月が来るとうつ病になるパニック障害の患者さん枚挙にいとまがありません。夫の実家に帰り親族に気を使わなければと思うだけで、息苦しくなったり、胸が痛くなったり、めまいが起こるという訴えはしばしば聞きます。パニック障害発症に関連するストレスで女性に2番目に多いのは障害児を持つことです。この場合、障害の程度はあまり関係がないようです。3番目に多く見かけるストレスは夫のプレッシャーです。夫から受ける束縛感は有言、無言に限らず結構多いようです。男性のパニック障害発症ではやっぱり仕事上のストレスが最も関係深いと思われます。女性でも男性でもストレスにより追い詰められた状態がかなり長期間続き、これ以上耐えられない時点でパニック発作が出て発症します。普通のうつ病が頑張って頑張って頑張り抜いて一息ついてホッとしたところで発症するのと少し異なっています。

 前にも述べましたようにはっきりしたストレスなしで発病する人達はどのように考えたらよいでしょうか。ひとつは本人がストレスを意識していなくてもその患者さんの生体にとって大変なストレスが加わっていたということがあります。もう一つは、体質的にパニック障害になり易い人です。これは家族性、または遺伝性と言うこともできます。わたしのクリニックの調査では、パニック障害の患者さん5人に一人は親、同胞、または子供にパニック障害の人がいます。パニック障害は非常に家族性の高い病気です。現在までの研究ではパニック障害そのものの病気の遺伝子は見つかっていません。わかっていることはパニック障害になり易いことに遺伝子が関与しているらしいということだけです。生来的に過敏な性格で普通の人ならそれほど苦痛に感じないような人間関係にも強く反応してしまい悩み苦しむ人がいます。その結果ストレスが増大し、パニック障害を発症してしまいます。このような病前性格は、小さいときの環境により作られることもありますし、生来的に、言葉を換えて言えば、素質的、遺伝的に過敏なたちの人もいます。すなわち、環境と遺伝子は密接な相互関係をしているのです。

 わたしたちのクリニックでは、この辺りのことを明らかにするために、専門家が集まり大掛かりな調査を進める準備をしています。性格検査を受け、自分の遺伝子をこの調査のために提供してくださるボランティアの患者さんをクリニックでは募集しています。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.33 2003 SUMMER