パニック障害患者の心性F

― 過去・現在混同症候 ―

 はじめにお断りしておきますが、ここにお話しする状態はすべてのパニック障害患者にみられるものではありません。パニック性不安うつ病を呈した患者のごく一部に見られたものです。筆者は初めてこの様な患者を診たときは、変わった人がいるものだとあまり気にすることはありませんでした。しかし、その後、同じような訴えを何人かの患者さんから聞くにおよびこれはパニック性不安うつ病の症状のひとつだと考える様になりました。では、実際の事例から現在・過去混同症候について述べましょう。

 A子さんは22歳になるスタイルのよい女性です。高校を卒業してから観光バスのガイドをしていました。就職して1年が経った頃、お花見ツアーを引率している日の午後、めまいと、吐き気と、発汗、軽い現実感喪失状態からなるパニック発作に襲われましたが、なんとかきりぬけました。その1ヵ月後、休みなしで仕事をしてほっとした連休明けのある日、自宅で目がグルグルまわって立っておられないほど強烈なパニック発作に襲われ救急車で病院に運ばれました。その後はお決まりのコースでパニック障害が進展していきました。この2年余、仕事には就いていません。パニック発作がその激しさを失い始めた頃から、強いうつ気分に襲われる様になりました。午前中の気分は比較的よいのですが、午後になると体がだるく眠くなります。また夕日が沈む少し前になると、さびしい気分に襲われ、わけもなく涙が出てきました。この状態が始まると、“自分だけがなぜこんな病気になったのか”、“自分はかわいそうな人間だ”、“毎日バリバリ働けて素敵な彼がいるB子がうらやましい”、“私の将来はどうなってしまうのだろうか”、“こんな人生なら生きていても仕方がない”という思いに苛立ち、居ても立ってもおられなくなります。気分の持っていきようがなく、手首を切ることがしばしばです。A子さんは自殺しようなどとは思ったことがありませんが、彼女にとってリスト・カットが焦燥感を断ち切る最も手早く確実な方法でした。憂うつな日々が続いていましたが、高校時代に一番仲がよかったC子から電話があると気分が急に明るくなります。A子さんは親友のC子には自分がパニック障害にかかっていることをはじめ常日頃悩んでいることは何でも話しています。C子はまるでA子さんのお姉さんのように彼女の相談に乗りますし、一緒にショッピングや食事にもいってくれます。また、A子さんは毎週木曜日の夜放映されるテレビの連続ドラマ「明日香の青春」は楽しみにして見ています。気分が沈んでいる日でもこのドラマのなかに出てくる同年代のツアーコンダクターを演ずる主人公を見ていると元気が出るのです。ただ、テレビを見ながらチョコレートなど甘いお菓子を手元から離したことがありません。そんなことでこの半年間で7kgも体重が増えています。

 ある日の夜、A子さんは自室で何をするともなく過ごしていました。気分は多少沈み込んでいました。考えるともなしに中学時代の友人のことが頭に浮かんでいました。D子が、“A子は見栄っ張りでうそつきだ”と同じグループの仲良し仲間に話していたことを思い出してしまいました。そんな昔のことを急になぜ思いついたのか自分自身でも不思議でしたが、A子さんはそのことで頭がいっぱいになってしまいました。そして当時のいやな記憶が次々によみがえってきました。あの事件以後自分はグループの中で浮いてしまった、親しく話し合える子がいなくなってしまった。毎日学校へ行くのがいやで成績はどんどん落ちてしまった。その内容は非常に鮮明で、あたかも昨日経験したかのような感じでした。そんなことを考えていたら、A子さんは急にひどく腹立たしい気持ちで頭がいっぱいになってしまいました。自分がこんな惨めな病気になってしまった原因には、あの時のD子の意地悪がトラウマとして働いているのだと思い込んでしまいました。そうしたらD子に対する憎悪の気持ちが一気に噴出しどうしようもなくなりました。その夜はまんじりともせず更けました。翌日、A子さんは憤懣やるかたなき思いで誰の言葉にも耳を傾けず、家族の制止を振り切って、D子の家を訪問しました。ウイークデイであいにくD子は仕事にいっており、お母さんだけしか家にいませんでした。それでもA子さんはお母さんに向かって激しい言葉でD子の攻撃を始めました。A子さんの興奮は尋常のものではなく、どのようになだめても謝っても収まりませんでした。それどころかますます感情が高ぶり、今にも暴力沙汰になりそうな気配でした。D子さんのお母さんは恐怖のあまりに110番をしてしまいました。

 警察から帰されたA子さんはなおこの激情から解き放されませんでした。しかし、1週間2週間過ぎていくうちにこのかなり昔の記憶はだんだん色あせていきました。2ヶ月も過ぎる頃,A子さんはすっかりこの問題を話題にすることはなくなりました。3ヶ月ほどして診察の際にこのエピソードに触れると、A子さんあれほど激しく反応した内容に対してサバサバと受け流し、まったくこだわりを示すことはありませんでした。つきがおちるとはこのことです。その後、A子さんの病状は少しずつ改善の方向に向かっていきました。5ヶ月後には半日だけパートで働き始めました。それから3年たちますが、A子さんは昔のバス会社で働いています。時に少し息苦しくなる程度で、パニック発作はまったくありません。気分の波は多少ありますが、それも生理前だけです。先日、婚約者とクリニックを訪問し自分の病気の説明を受けて帰りました。

 A子さんの事例は過去・現在混同症候の典型的な例です。これほどまで極端な症状を示す患者さんは多くはありませんが、根底にはこれと類似した様相を呈する患者さんはその気で診れば結構多いと考えられます。この病態は次のようにまとめることができます。

  過去・現在混同症候
パニック性不安うつ病の経過中に発症する。
過去の出来事を自分の意思の関与なしに想起する。その想起内容は鮮明で強い陰性感情を伴い、あたかもごく最近にあったかのごとく錯覚される。
患者はその過去の出来事を病気の心因とみなす。
現実吟味が困難で、アンガーアタックを伴う行動化がしばしば見られる。
この状態は一過性であり、数ヶ月以内に忘れ去られる。

 パニック障害は不安の病です。それは激しい情動の変化が前面に出るすさまじい病気です。この病気を脳内機構からみると、情動は海馬・扁挑体といった部位と深く関与しています。この海馬・扁挑体はまた記憶という精神機能とも関係する部位であります。ですから、パニック障害で記憶に関係する症状が出ても決しておかしくはありません。最近の記憶研究では、昔のことを思い出すという想起の脳内機構には2種類あるといわれています。自分の意思で思い出そうとする(随意想起)時には前頭葉から側頭葉の記憶の貯蔵庫に向かって刺激が生じるのに対して、過去・現在混同症候におけるようになんとなく思い出す過程(自動想起)では辺縁系に属する傍嗅皮質から側頭葉に向かって信号が伝播して行くことがわかりました。この辺縁系は海馬や扁挑体を含む脳部位で、記憶や情動の中枢です。赤坂クリニックで行われたパニック障害のPET研究では扁挑体や海馬で糖代謝の亢進が見つかりました。心的外傷後ストレス障害(PTSD)でも海馬が傷害を受けていることがわかっています。PTSDでは自分の意思に反していやの思い出がフラッシュバックとして出現しますし、症例によってはパニック発作が見られることもあります。このようにパニック発作の出現や想起障害と言う点ではパニック障害はPTSDと類似した点がありますが、全体像、治療法、および予後は明らかに異なっています。

 最後に過去・現在混同症候の患者さんに対する対応法を述べます。冷静に話し合い、それは昔の出来事であることをまず納得してもらうことが大切です。つぎに、行動化に対しては延期を指示し時間が過ぎるのを待つことです。この行動化は事件につながることが多いので十分に注意する必要があります。時と場合によっては、鎮静剤の投与も考慮する必要があります。A子さんの事例のような警察の介入や、訴訟問題も少なくありません。事を大きくさせず、時間の経過とともに沈静化することを信じることです。

医療法人 和楽会
理事長 貝谷久宣