悟り・至高体験

― 不安の対極 ―

 パニック障害の人から、「なんとなく落ち着かない」「心もとない」「心細い」「気が気でない」「気遣わしい」などという言葉をしばしば耳にします。パニック障害の治療が進み発作はなくても、このように穏やかでのどかなこころを持ち続けることが難しい人がいます。筆者は、不安という心の対極に悟りとか至高体験があると思います。筆者はこの両極の心的状態に類似点があると考えています。それは不安であれ、悟り・至高体験であれ自我の変容が生じるという点です。では自我とはいったいなんでしょうか?精神医学では、自我とは、

@ 自分が自分であることを認識すること、
A 過去の自分と現在の自分が同じ自分であると認識すること、
B 他人と自分を区別すること、
C 自分が行動している感じがあること、です。

 パニック障害の患者さんは、時に@とBの自我機能が弱ることがあります。もちろんそれは強度な不安が根底にあるためです。まず、パニック障害における@の自我の弱化の事例を挙げてみましょう。パニック障害の人は、「何がなんだかわからなくなった」とよく言います。これはいわゆる心のパニック状態です。呆然となり、自分のおかれた立場、自分自身の状態、自分がとるべき行動についての見当識が失われた状態です。要するに自分は何者で、何をしているのか、どうすべきかわからなくなってしまった状態です。これは不安のために精神機能がすべて過敏になり、少し大きな感動的刺激が加わると高次の脳機能が一時的にストップしてしまうのです。パニック障害の人では多少なりともこのような自我の弱化状態が生じます。パニック障害におけるもうひとつの自我変容は、他人と自分の区別が曖昧になることです。最もよくある例は患者さん同士の電話です。パニック障害の人は患者さん同士がすぐ仲良くなります。お友達を作ることが大好きです。これもパニック障害の人の特徴ですが。そしてお互いに電話でおしゃべりをします。これは広場恐怖の一種なのですが(束縛されている状態が怖い)、長電話で気分が悪くなることが良くあります。一方の患者さんが相手に自分の気分が悪くなったことを伝えますと、他方の患者さんもすぐそれに同調してしまい気分が悪くなっていきます。そして二人とも発作が起きてしまうことがあります。これは他人の発作を他人の発作と思えず、自分のことと受け取ってしまった感応状態です。パニック障害の人にはこのような例は枚挙に遑(いとま)がありません。殺人事件のテレビドラマを見ているうちに自分が被害者になったかのごとく大声を上げ逃げ出す人もいます。新潟中越地震のニュースを見ていて自分が被災者になったように思い込んでしまってすぐさま大金を寄付した人もいます。このようにパニック障害の人は、往々にして自他の区別が軟弱になっていることがあります。

 さて、では不安の対極にある心理状態である悟りとか至高体験とはどのような状態なのでしょうか?多くの先人たちが、この心の平安の極致に到達した言葉を残しています。ここでは東洋と西洋の事例を示しましょう。東洋の事例として以下に、愛宮真備「禅 悟りへの道」から明治時代の著名な禅僧・今北洪川の体験を抜粋します。

 “ある夜、座禅に没頭していると、突然全く不思議な状態に陥った。私はあたかも死せるもののようになり、すべては切断されてしまったかのようになった。もはや前もなく後もなかった。自分が見る物も、自分自身も消えはてていた。私が感じた唯一のことは、自我の内部が完全に一となり、上下や周囲の一切のものによって充たされているということであった。無限の光りが私の内に輝いていた。しばらくして私は死者の中から甦ったもののごとく我に帰った。私の見、聞き、話すこと、私の動き、私の考えはそれまでとはすっかり変わっていた。私が手で探るように、この世のもろもろの真理を考え、理解し難いことの意味を把握してみようとすると、私にはすべてが了解された。それは、はっきりと、そして現実に、私に姿を現したのであった。あまりの喜びに私は思わず両手を上げて踊りはじめた。そして、突然私は叫んだ。『百万の経巻も太陽の前のローソクにすぎない。不思議だ。本当に不思議だ。』”

 今北洪川が、「自分が見る物も、自分自身も消えはてていた。私が感じた唯一のことは、自我の内部が完全に一となり、上下や周囲の一切のものによって充たされているということであった」と感じられたのは、自己と世界の融合体験だと考えられる。禅の悟りの境地においては、自己と世界は融合し、我と汝、自と他、主体と客体、個と全体などという二分法的、概念的思考(分別知)が消失してしまうと言われています。すなわち、それはある意味で自己の喪失の結果、自我が膨張し、宇宙と一体になったといっても良いでしょう。

 次に西洋の事例を示しましょう。1971年、アポロ14号の月着陸船に乗り組こんだエド・ミッチェルの「宇宙からの帰還」(立花隆、中央公論社刊)からの抜粋を示します。

 “月探検の任務を無事に果し、予定通り宇宙船は地球に向かっているので、精神的余裕もできた。落ち着いた気持で、窓からはるかかなたの地球を見た。無数の星が暗黒の中で輝き、その中に我々の地球が浮かんでいた。 
……… いつも私の頭にあった幾つかの疑問が浮かんできた。私という人間がここに存在しているのはなぜか。私の存在には意味があるのか。目的があるのか。………
いつも、そういった疑問が頭に浮かぶたびに、ああでもないこうでもないと考え続けるのだが、そのときはちがった。疑問と同時に、その答えが瞬間的に浮かんできた。問いと答えと二段階のプロセスがあったというより、すべてが一瞬のうちだったといったほうがよいだろう。それは不思議な体験だった。宗教学でいう神秘体験とはこういうことかと思った。心理学でいうピーク体験(至高体験)だ。詩的に表現すれば、神の顔にこの手でふれたという感じだ。とにかく、瞬間的に真理を把握したという思いだった。世界は有意味である。私も宇宙も偶然の産物ではありえない。
……… 個別的生命は全体の部分である。個別的生命が部分をなしている全体がある。 すべては一体である。一体である全体は、完壁であり、秩序づけられており、調和しており、愛に満ちている。この全体の中で、人間は神と一体だ。自分は神と一体だ。 ………
人間の一瞬一瞬の意識の動きが、宇宙を創造しつつあるといえる。 こういうことが一瞬にしてわかり、私はたとえようもない幸福感に満たされた。それは至福の瞬間だった。神との一体感を味わっていた。”

 東洋的な悟りの境地が「自己と世界の融合、言葉を変えれば、自己が宇宙に溶けこんでひとつになっている」心境をもたらすのに対して、宇宙飛行士エド・ミッチェルが体験した至高体験は、「神との一体感」でありました。このように、東洋、西洋を問わず、宗教的な悟りや至高体験を特徴づけるのは「自己」という壁が打ち破られ、自我意識が充満膨張することだと考えられます。パニック障害における自我の変容は弱体化であったのに対して、悟り・至高体験の自我の変容は充満膨張だといえましょう。このようなことから、パニック障害の患者さんが不安を退治するひとつの道として、悟り・至高体験を得る手段をとることも有用だと考えられます。それは、座禅とか、瞑想といったような心を養う、言葉を変えて言えば、最終的には自我を強化する方法だと思います。皆さん、明日から瞑想を始めましょうか?

医療法人 和楽会
理事長 貝谷久宣