私の不安体験

〜小学校以後〜

医療法人 和楽会 理事長 貝谷 久宣

Que Sera Sera VOL.48 2007 SPRING

 小学校1年生の担任は江馬先生でした。昭和25年ですから、先生はまだ丸坊主で草色の国民服を着ていました。ある日、身体検査で私は爪を切ってないことを注意されました。しかし、先生の爪にはもっと黒いものが詰まっていました。私はすかさず、先生の爪も伸びていますといってしまったことをよく覚えています。それは、教諭生活の合間に農業をやられていたためだと思われます。生意気な小学1年生でした。卒業すると、名古屋市立前津中学校に入学しました。それは地区の学校ではなく、名古屋のいわゆる有名中学校で、居住地を寄留して通学していました。ですから、通学には路面電車に30分位乗ることが必要でした。1年生になって間もなくのある日、稲永埠頭始発の満員の市電に乗ると隣のクラスの女生徒が乗っていました。私は彼女の顔を見るだけで赤面してしまい、額から汗がたらたらと垂れるのを感じました。私が同級生の女生徒に会っただけで恥ずかしがっているということを周囲の乗客に知られてしまったという恥ずかしさがこみ上げてきて二重の苦しみでした。それからその女生徒が乗っていそうにない電車を選んで通学しましたが、それでも、電車に人が多く乗っていると自分が見られているような感じがしてついには電車に乗らなくなってしまいました。それからは、サイクリング用の自転車を買ってもらって1時間近くかけて通学しました。回避行動を伴う典型的な対人恐怖状態です。10代前半は社会不安障害(対人恐怖)の好発年齢であることは不安障害の専門家の常識です。私は全く教科書どおりの思春期発症をしていました。

 この対人恐怖は高校になっても多少陰は薄れても存在していました。私の高校時代は剣道一色でした。対人緊張の強い私
ですから、高校になってガールフレンドが欲しくてもとってもそのようなチャンスには恵まれませんでした。それは高校1年の夏休みの合宿でした。運動部の合宿は家庭科実習室の和室で寝泊りし、その実習用の厨房で同級生の女子生徒が食事を作ってくれることになっていました。そのような合宿の夜は、当然ながらどの娘が可愛いとか、誰が誰を気に入っているという話になりました。私も不肖ながらFYは魅力的などと話したのだと思います。そうしたら、後になって2年生の人情味豊かな鬼主将金平先輩から呼び出しを受けました。「貝谷、FYなら俺のガールフレンドの妹分だ!俺が話をつける」と宣告されました。私はうれしいやら恐ろしいやら複雑な気持ちに襲われました。2学期が始まり、ある土曜日に私はうまれて初めてデートというものをしました。私たちは作曲家フランツ・リストの生涯を描いた「わが恋は終わりぬ」を見ました。そのときの私は会話を交わすことはほとんどできず、また映画を見ている最中も彼女の顔をのぞき見ることさえ相かなわず、終始無言で体をこわばらせ真剣に映画を見ているふりをしていたと思います。緊張の極度に達した状態が続いていて何がなんだかわからない放心状態で同級生の待ち受ける道場に帰った記憶しかありません。その後、彼女と再び二人だけ会うことはありませんでした。「わが恋は始まりぬ」でした。

 高校3年になると剣道ばかりはやっておられなくなりました。受験を控えて少しずつ緊張感が高まる日々でした。ある朝、クラス担任の後藤岩男先生が教室に現れるなり、黒板に「日々是好日」と大きな字で書かれたことを覚えています。後藤先生はしゃべるのが下手な数学の教師でした。何を話しても「ウッウッ」と言われるだけで以心伝心といった先生でした。その先生が何も言われずにこの言葉を書かれたのです。なにがどうでも勉強に励まなければならない日が来ていました。大学入試を控えて日一日ごとにプレッシャーは高まるばかりでした。私は志望校を決めて勉強をしていましたが、入学試験の2ヶ月ほど前からほとんど勉強が手につかなくなりました。勉強をするどころか、“死んだらどうなるのだろうか、死の瞬間はどのようなものか”ばかりを考えるようになりました。今から考えると明らかに“死”が対象の「単一恐怖」の状態です。そのことを考えると、居ても立ってもおられないほど恐ろしくなり、常に誰かといないと不安でたまりませんでした。同級生でも老けて大人びた仙田君によく家に来てもらっていました。“そんな悩みは小学生か中学生の時にするものだよ、君は幼いね”などと仙田君に馬鹿にされていました。頼りがいのある同級生と一緒なら多少は勉強することができました。ある友人はカウンセリングの心得のある高校の先生のところに相談に行くことを勧めてくれました。当時私は医学部を志望していましたが、大学に入ったら絶対に永平寺に行って修行をしようと思っていました。また、僧になってもいいとも考えました。この恐怖症は大学受験が済むといつの間にか消え去っていました。そして、大学に入学すると毎日が楽しく、悩んだことなど一切忘れ、結局、永平寺に修行に行くことはありませんでした。

 高校時代に見られた私の恐怖症は陰を潜めて明らかな障害の形としては現れませんでしたが、それでも時に頭をもたげることがありました。それは医者になって初めてか2度目の学会発表のときでした。スライドで脳切片の顕微鏡写真を見せて説明し始めて間もなくして、突然、下肢がガタガタと震え始め、立っていることさえも困難になりました。震えは止めようにもどうにも止まりませんでした。会場が暗かったことが唯一の助けでした。しかし、我慢して発表を続けているうちに平静さを取り戻し、無事発表を終えることが出来ました。

 不安障害は年齢に従って様々な形で現れてきます。乳幼児期にはひとみしりです。もう少し大きくなって幼稚園に行く頃になると、分離不安障害が見られます。これは親と離れることに強い不安感を持つ状態です。同じ頃から単一恐怖も現れます。人間には本能的に恐れるものがあります。たとえば、ヘビなどの爬虫類、高所、閉所、 血液、地震や雷などの転変地変です。このようなものにたいして異常に強く恐れを抱く状態です。犬が怖くてたまらない少年、ボタンをはじめ丸いものはすべて身につけることができない少女(怖さの理由は不明です)、クモやガを極端に毛嫌いする主婦、私と同じように死ぬことが怖くてたまらない青年、等等を私は診察したことがあります。この単一恐怖は小学校入学前後に始まることが多いです。小学校低学年から手洗い強迫を典型例とする強迫性障害や、極端な神経質である過剰不安障害が見られます。そして中学生になる前後から対人恐怖が見られるようになります。成人前後からはパニック障害が多くなります。しかし、パニック障害は小児期から時に見られます。筆者が治療したパニック障害の最若年例は小学校3年の発病でした。

 私の子供時代から青春時代にかけての不安体験として、分離不安、強迫性儀式、対人恐怖、そして単一恐怖を持ったことになります。わたしにその後不安障害が発展しなかったのは、私の精神が強かったわけでは決してないと思います。ひとつは、私がいい加減な人間で、“まあ、いっか”と考えるずぼらさを持っていたことでしょう。それと、人前に出たとき自分の見せるものはまんざらではないと自惚れてしまう脳天気さを持っていたからです。さらに、父親と死別しても母の強い愛情に包まれた比較的穏やかな環境を過ごせることができたことがもうひとつの要因だと考えられます。大学入試の前に仏道修行をしようと思ったことを、60歳を過ぎた今また少しずつ考え出しました。永平寺に修行にはまだ行っていませんが、鎌倉の報国寺や横浜の総持寺の日曜参禅会には顔を出すようになりました。真剣に「死」に向かわなければならない年齢になったせいでしょう。