〜小学校入学以前〜
 中山和彦教授が「こころの科学128巻 2006-7」の特別企画「不安とむきあう」のなかで“不安と出会う”という一文を書かれていました。これを読んで筆者の幼小児期にも似たような体験があることに気づきました。ここでは中山流に筆者の不安体験について書いてみようと思います。

 私は薬局を営む両親の家に長男として誕生しました。ところが昭和23年4月、父は1年近く病床についた後亡くなりました。三十路にまだ数年あった母は一人で家業を引き継ぐことになりました。そのとき筆者は満4歳と5ヶ月でした。当時の名古屋市港区は埋立地が多く、自宅の裏には沼地や小さなドブ川がたくさんありました。近所の年長の男児とフナやザリガニ採りに夢中になる日々でした。父が病死した日は、泥まみれになって遊びこけている筆者を女中が呼びにきました。そして、自宅の二階で病臥している父の枕元に連れて行かれました。床の間の花瓶には、父が所望して看護婦さんが岐阜の実家から取り寄せた桜の太い枝木がまだ花をつけていたと思います。枕元には母と往診していた川崎先生と看護婦さんがいたのだと思います。このあたりの記憶ははっきりしません。母が、「お父さん亡くなったんだよ」と涙声で私に言いました。私は大声で泣いたのですが、悲しいとかさびしいという感情は何もなかったように思います。母が泣いていたから泣いたのかもしれません。ただ大声で泣いた記憶は鮮明にあります。父の死顔に恐怖感を持つこともなかったと思います。しかし、この死別体験は私の不安体験の源として心の奥底に常にあったのではないかと憶測しております。

 父の死後、私は母方の祖父母の家に一時的に預けられました。祖父母は名古屋城下の家を太平洋戦争の空襲で焼け出され、中央線高蔵寺の駅から徒歩で20分ほどの小高い丘の上に借家住まいをしました。クリやどんぐりの木に囲まれた瀟洒なこの家を私は大変気に入っていました。家の前のくぼ地には桑畑や柿の木があり、祖父がカスミ網を使ってツグミを捕らえていたことを覚えています。新聞配達のお兄さんが早朝捕まえたカブトムシをプレゼントしてくれたこともありました。静かで穏やかな山里でした。祖父は国鉄の駅長を定年退職後、名古屋の丸通に勤めていました。私は夕方になると駅と家の中間に位置する橋まで迎えに行くのが習慣になっていました。いつもお土産は森永ミルクキャラメル一箱でした。近所の子供と缶けり遊びをよくしました。丘の上から蹴られた缶は下のほうまでころがり、鬼になると大変でした。汗だくになって帰ると祖母が梅酢を冷たい井戸水で割って出してくれました。あのときの冷たくて酸っぱい甘味は今でも忘れません。祖父母は7人の子をもうけ、孫は20人以上いたと思いますが、その中で私は一番可愛がられた一人だと思っています。そのような祖父母の愛にはぐくまれていても、やはり夜になると母が恋しくなったものです。夕暮れ時、風になびいて揺らめくカーテンが女の人のスカートのような気がしたとき、急に母が恋しくなりました。縁側に立つと名古屋の灯火がはるかに見えます。"あっちのほうに母ちゃんがいるんだー"と泣きはしませんでしたが、悲しい気持ちに襲われたことがありました。高蔵寺の生活は概して楽しい思い出が多いですが、他にも苦痛なことはありました。高蔵寺の町の中に幼稚園が出来たからそこに通園することになりました。園章のバッチは大変気に入ったのですが、そこの子供たちとどうしてもなじめませんでした。バッチは気に入ってものすごく欲しかったのですが、それ以上に通園が嫌で、数回行っただけでやめてしまいました。対人緊張の芽生えがあったと思います。もうひとつは家から遠くはなれたときの激しい不安感です。ある日、学校へ行っている大きなお姉さんがイナゴ捕りに誘ってくれました。知らない子ばかりで行くのに躊躇していましたが、祖母の強い勧めで連れて行ってもらうことになりました。黄金色の稲畑のあぜを白い大きな布袋を持って歩きました。イナゴをみつけるとすばやく捕らえ袋のなかに入れるのです。当時はイナゴも大切な蛋白源だったのでしょう。このイナゴ捕りははじめのうちは珍しく面白かったのですが、だんだん疲労が出てきて歩くのが辛くなりました。そして、家が無性に恋しくなり不安になってきました。なじみの薄いお姉さんと知らない子ばかりで心細さが募ってきたのでしょう。そのとき、はるかに見える丘の上の家が急に祖父母の家に思えてきて、皆と別れて単独行動をとろうとしました。しかし、一人だけ帰ると言い出せずに、とぼとぼと皆の後について歩きました。その時は、死ぬほど体がくたくたに疲れていました。しかし、黙ってついて行ったのが正解だったのです。その丘の上の家は別の家だったのです。あのときの疲労感と不安感は思い出しても足がすくむほどの出来事でした。

 小学校に上がる少し前、名古屋の母の元に戻されました。当時テレビはなく、夜の8時には就床させられていました。母はまだ薬局を閉じておらず、寝ているところにお客の話し声がなんとなく聞こえ、お店の雰囲気がかすかに感じ取られました。誰もいなくなると静寂が訪れます。私は夜具の中で左を向いて手をあわせ祈りました。次に右を向き最後には仰向けで手を合わせ祈りました。このお祈りをしないと悪いことが起こるような気がして眠ることができませんでした。これは強迫性障害にしばしば見られる儀式行為です。この強迫行動はそれほど長くは続かなかったと思いますが、一時的には典型的症状を呈していました。ただ、本人が強く悩まなかった点と生活上の実質的な障害がなかったという点ではそれほど病的な不安症状ではなかったと考えられます。

 私の小学校入学前までの不安についてまとめると、人見知り、軽い対人緊張、軽度の分離不安、そして強迫性儀式があったといえるでしょう。小学校以後の不安は次回に回しましょう。
医療法人 和楽会 理事長 貝谷 久宣
Que Sera Sera VOL.47 2007 WINTER