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 剣  道

医療法人 和楽会
理事長 貝谷久宣

 両剣士青眼に構え、互いに間合いをはかり牽制しながら相手の隙をうかがう。自己の英気を掻き立て相手を威嚇する掛け声を腹の底から出しあう。精神の高揚は最高潮に達する。一足一刀の間合いに、入っては退き、入っては退き、その狭間に相手の剣先を殺しあう。相手がひるんだとみた瞬間、「おめーん!」と打ち込む。先先の先をとる。一本が決まった時の心持ちは剣士冥利に尽きる。この一本は、体力、技術はもちろん充実した気力がなければ得られない。まさに「剣心一如」である。

 大学時代の剣道の恩師小川正亮先生が剣道功労賞を受賞され、米寿の祝いを兼ねた祝賀会が催された。剣道功労賞は剣道の文化勲章のようなもので、この道を究めさらに広く社会貢献をした人に送られる貴重な賞である。筆者が稽古を付けてもらっていた当時の恩師は現在の筆者より数歳若く、先生の稽古は大変激しかった。先生と竹刀をとって向き合ったらもう一瞬の心の空白も許されなかった。常に積極的に攻撃の体勢で攻め込んでこられる先生に対して、こちらから先に打ち込まざるを得ない状況がつくられていた。絶えず”いくぞ! 懸かるぞ!”という心意気をもっていることが要求された。わたしは小川先生からこのような稽古をつけていただいている中で、”いつも自ら積極的に出る”という人生の根本姿勢を教えられたような気がしている。先生は当時我々に次のような精神の集中の仕方を教えて下さった。試合前のイメージトレーニングである。部屋の真ん中に静かに座り、天井の隅をじっと見る。2つの梁と柱が交差する部を凝視すると心が落ち着いてくる。そうしたら、相手と構い合う自分の姿を想像し、イメージの中で剣道をするのである。このようにして次の試合に備えるというものである。また、小川先生には剣道のこと以外にも社会人としての有り様を教えていただいた。掃除婦のおばさんに親切にしなさい。彼女の君についての一言が君の人生を変える可能性があるという内容の言葉であった。

 わたしの青春時代は剣道そのものであったと言っても過言ではない。高校3年生の夏休みまでは学校にではなく、剣道部に行っているような生活であった。小さい頃父を失い一人っ子であったわたしは、男だけの剣道部に大きな魅力を感じた。単調な基本稽古の繰り返しも強くなりたいの一心で全く厭うことはなかった。足の裏と手の皮がべろんべろんに擦りむけても毎日の稽古は楽しかった。立派な剣を使う尊敬する先輩を同輩と競って取り合ってお願いする係り稽古も試合稽古も身体的に苦しくはあったが、精神的には刻苦の快感があった。稽古前後の正座黙想は、これから始めるぞと言う準備の心と、激しい稽古の後の穏やかな心を与えてくれた。先輩後輩間の礼儀作法も、道場掃除も、禅宗の坊さんが厳しい戒律のもとに精進するような心境で対応できた。剣道部員同士の連帯意識は純粋な若い心にとっては非常に快い精神作用であった。初めての夏休みの合宿での出来事はまさにまさに青春まっただ中の思い出を彷彿とさせてくれる。朝のラジオ体操に始まる駆け足、昼間の激しい稽古、同級の女子学生が作ってくれる食事、猥雑な歌を教わる夜の演芸大会、真夜中の肝試し、枕投げと、どれもが生涯忘れられない楽しい思い出である。当時の剣道都顧問は東京高師出身の中根親純先生であった。戦争中、野戦の部隊長で実際に真剣で戦かわれた経験談を何度も聞かせて下さった。中根先生の講話は実に魅力的でわれら高校生の心を捕らえて離さなかった。人情、心の器量、プレゼンテーションの大切さを習った。剣道部にのめり込んだわたしは一年生の秋には初段に、二年生には二段に合格していた。二年生の夏過ぎからはレギュラーとして対抗試合に出場した。当時団体戦は五人でチームを組むことになっていた。わたしは高校時代ずっと先峰を務めた。わたしの在籍した高校剣道都は当時県内の公立高校の中では上位の戦績をあげていた。我々五人は先輩の築いた栄誉をくずすまいと必死になって稽古に励んだ。その結果、何とか伝統を保って卒業した。最近、年二回、この剣道都同期5〜6人が東京で集うようになった。気のおけない連中ばかりで、このときばかりは青春時代に戻ることができる。大学の剣道都では、経験者は大変少なく、わたしは三年生から四年間大将を務める羽目になった。大学時代の一番の思い出は、医学生だけが集まって催される西日本医科学生総合体育大会であった。九州、中国、四国、関西、中部と六年間順次場所を変え大会が開かれた。五年生の時、山口大学医学部主管でなされた大会では、団体戦では早々に敗れ、個人戦に出場したわたしは、どういう風の吹き回しか、次々に勝ち抜き、ついに決勝戦に及ぶことになった。当時の医学生の剣道界は九州勢に四段、五段という猛者がそろっており、わたしなどがとっても優勝戦にまでいけるなどと想像さえできない状況であった。それが、団体戦で精魂使い果たした九州勢が個人戦ではほとんど勝ち残っておらず、地元の山口大学の選手とわたしが優勝を争うことになった。結果は準優勝に終わったが、これがわたしの剣道の項点であったのだろう。 前述の祝賀会は、今なお矍鑠とした恩師の、三十数年前と比べ風格とやさしさがさらに加わった笑顔に触れ、何とも心楽しくすごした。そして髪の白くなったり薄くなった剣友と談笑しつつ、光陰矢の如しを身をもって感じ、自分の人生航路に少なからず影響を与えてくれた剣道に思いを寄せた。


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