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不安のない生活―――(1)茗荷和尚

医療法人 和楽会 理事長 貝谷 久宣

 小さいころ茗荷(みょうが)を食べ過ぎると惚けると祖母や母から言われたことがある。そのいわれが最近わかった。先日、京都で高台寺執事の後藤住職のお話を伺った。高台寺ゆかりの秀吉の人情とおねねの人徳から話が起こされ、最後の方で仏陀が最も可愛がったのは茗荷和尚(実名は周梨槃特、死後その墓の脇から生えてきた植物が茗荷であったので、後に茗荷和尚と呼ばれるようになった)であったという話が出た。茗荷和尚は昔の物覚えが非常に悪く、惚けといわれていたが、そのときそのときを一生懸命生きる人であったという。この生き方は仏陀の教えに最もかなったもので、そのためにお釈迦様は最も物覚えの良い阿難尊者(アーナンダ)を尻目に茗荷和尚を愛されたという。

 わたしはこの話を聞き、思い当たる節がフッと頭に浮かび上がった。私が、精神科医になったのは1968年でちょうど今から40年前である。当時は何もわからない新米医者であり、見るもの聞くものすべてが新鮮に見えた。同じ人間でありながら何故こんなになるのだろうと好奇心と探究心に満ちあふれた日々であった。今と違って、当時の精神科の患者は普通の人とは異なった存在であった。その頃、大学病院で研修の合間に週に1日は精神病院にアルバイトに行くことが許されていた。私は岐阜県の東濃地方に位置するある精神病院に行っていた。当時の精神病院は最近の設備の整った施設とはかけ離れたもので、お世辞にも清潔であるとは言えなかった。木造平屋の20畳敷きぐらいの部屋に15人も20人も入院患者が詰め込まれていた。ホールで午前と午後に2回作業時間があり、卓球台を囲んで内職仕事をやっていた。しかし、入院患者の多くは、無為無感というレッテルを張られた陳旧性の統合失調症患者であった。彼らは不潔な破衣をまといホールにも出ず、終日部屋の中でごろごろしていた。このようなどんよりした雰囲気の精神病院の中で何人かは目立つ患者がいた。ホールのテーブルに上がり大声で喋りまくる躁病の患者やてんかんのひきつけを起こす患者、アルコール中毒で幻覚に襲われて保護室の中で一心に虫をとる動作を繰り返す患者などである。このような患者とはまた違う意味で私の注意を引いた患者がいた。50歳過ぎの男性患者で、彼は、はげ頭に手ぬぐいを前縛りに鉢巻をしていた。表情は明るく活発で、内職仕事の出来上がったものを集めて回っていた。また、いつもニコニコしてひまがあるとホールや便所の掃除をしていた。このような他の患者と様子の違う患者さんに興味を持った私は一体どんな病気だろうかと思い、詰め所の看護師さんにこの人のカルテを出してもらった。診断名の欄には「コルサコフ症候群」と書かれていた。これはアルコール中毒の最終段階の状態で、アルコール消費のためにビタミンが欠乏状態になり、脳内の乳頭体といわれる部位が変性して機能が廃絶してしまっている病気である。乳頭体は記憶に深く関係する脳部位で、ここが犯されると物事を覚えこんだり、昔の記憶をたどることが全く出来なくなってしまうのである。この病気になると、昨日のことも覚えていない状態で毎日生活しているのである。言葉を変えて言えば、一瞬一瞬を生きている記憶喪失の人である。その人の表情はなんともまた幸せそうで、精神医学では“多幸症”と言っているが、見方を変えれば“生き仏”であろう。

 私は、後藤和尚の話を聞いて、過去にも未来にもこころをやらず、一瞬一瞬に生きるとあんなに幸せな顔になるんだなと40年前のその患者さんの表情が頭にひらめいた。この“今に生きる”ということは最近心身医学の領域で「マインドフルネス」と言われて治療に応用され始めた。思い返しても仕方がない過去の悔いの山に阻まれ、未来の確定もしてもいない悩みの海に溺れた生活から脱却するのは、今現在を一生懸命生きることだと改めて確認した次第である。惚ける必要はないが、目の前のことを精一杯し尽くす。日々の生活に熱中する。これが不安のない生活に最も大切な生き方の一つだと思う。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.54 2008 AUTUMN


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