hl40.gif (822 バイト)

不安のない生活―――(6)安寧な日々を送る永久の乙女

医療法人 和楽会 理事長 貝谷 久宣

 那美さんは20歳の時からこの16年間、筆者の診療所に通うお嬢様です。最近は、精神医学的にはとくに問題はなく、いわゆる寛解状態を保っています。しかし、月に一度は再発予防のために通院してもらっています。この数年は、実家近くのおばあさんと二人で穏やかな日々を送っています。彼女は時々、般若心経を写経して持ってきます。私はそれをゆっくり最後まで大きな声を出して読みます。はじめのうちは字が乱れていましたが、持ってくるたびに毛筆が上手になっています。そのことを話すと、那美さんは喜色満面で大きな瞳に笑みをたたえます。那美さんの診察は私が彼女の書いてきた般若心経を読むことだけで終わることもあります。しかし、彼女は晴れ晴れしい表情で帰っていきます。ある時、次のような手紙を持ってきてくれました。

“日頃は何かとお世話になりまして、ありがとうございます。今日は家の前の公園へ車いすの祖母と散歩に出ました。道端にはドングリがたくさん落ちていました。2、3個拾って祖母に渡しました。なんだか秋の風情を楽しませてくれるようでした。穏やかな一日でした。おかげさまで調子も良く、いつも本当にありがたい気持ちでいっぱいです。このような私ですが今後ともよろしくお願い致します。これからも親しみと敬意を込めて………那美”

 この数年の那美さんは穏やかでトラブルのない生活を送っています。彼女は規則正しく通院して、療養に励んだ結果、病気が落ち着いてきたということもありますが、仏教に帰依した祖母の日々の言葉にも彼女をはぐくみ成長させる機縁があったものと考えられます。しかし、那美さんがここに至るまでには彼女自身の心にいろいろな流転の秘史がありました。

 那美さんが初めてクリニックを訪れたのは恋愛妄想が出没したからでした。2年前に担任であった高校教師が自分に気がある、とある日突然、確信したのでした。短大の2年生だった那美さんは朝3時に起きて手の込んだ弁当を作り、自転車に乗り先生の家に届けました。診察では、離れていても心は通じると思う、結婚したいというよりは大事にしてあげたい、と語っていました。彼女は事あるごとに、先生の家を訪問したり、差し入れをしました。車の好きな先生だからと言ってカー用品をプレゼントしたり、ぬいぐるみを作っていくこともありました。胡蝶蘭、手作りのケーキと差し入れはどんどんエスカレートしました。はじめのうちは、その男性教師も、電話に出たり、訪問されれば言葉を交わすこともありました。その教師に会ってくると、“言葉ではなくしぐさで自分のことを愛していてくれることが分かる”と、薬指の指輪を見せながら、生き生きとした表情で語りました。電話で話している時にキャッチホンが入ったのに自分と話し続けてくれたのは、自分を愛している証拠である、親戚から送られてきた花束を彼からの贈り物である、などと都合のよい思い違いが重なって行きました。那美さんの一方的な行動が歴然となってくると、先生は直接対応しなくなりました。訪問してもお母さんにやんわりと断られる羽目になりました。

 このような妄想の世界で生きる状態が1年余続いたのち、彼女の熱情は少しずつ鎮静していきました。そして次に、妄想の実現が不可能であることが分かってくると人格の退行が始まりました。一日にトマト15個、ミカン20個だけを食べて暮らすとか、些細なことに泣いてベランダから飛び降りようとしたり、首をつる準備をしたり、母を妹に取られたくないと言って母からいっときも離れなかったり、家族が困惑する状態が2年間近く続きました。3年目になると華道の教室に通えるほどになってきましたが、それでも時々は奇異な行動が見られました。3歳年下の妹に対する嫉妬心が旺盛になり、リストカットをしたり、2階から飛び降りるそぶりをしたり、トラブルが続きました。しかしながら、妹が別居するようになり那美さんは少しずつ落ち着いていきました。

 5年目に入ると、現実吟味ができるようになり、抑うつ気分が出てきました。自分の青春は高校時代で終わったといって、タンスの後ろに隠れて出てこない、自分は結婚して赤ちゃんを産むことは一生ないと、大きな赤ちゃん人形を手に入れてきました。また、自分をお姫様のように扱ってくれたやさしい男性が昔はいたと白昼夢にふけることもありました。この頃、那美さんは、祖父に先立たれた祖母を思い、訪問したり、泊ってくることがしばしばありました。また、デイケアーに通所をはじめ、他人との交流も増えていきました。その頃にくれた手紙には、

“今日私は父母の前で、私は大人ではなく、いつまでも親に甘えていたいと言いました。……妹は将来結婚して子供をもうけたら、きっと母はとても可愛がるでしょう。もちろん私もその子を可愛がるでしょう。でも、私はどうなるのでしょうか?……そんなだったら一層男の人に甘えたくもなりますが、そんなのは現実にはあり得ないことです。愛することで幸せが訪れる。幸せになりたいならば人を愛する。……私は男の人を信じられません。一緒に生活をすることはもっと大変で、それに私はやきもち焼きです。それに肉体関係を一度もったら、自分は覚せい剤のように、やめられなくなるのかな?それだったら知らないほうがいいよ。私は今まで結婚、結婚と言っていたけれど、今は、その後はどうなるの?死が訪れたら私は両親と同じお墓に入りたい。でも、死んでからのことではなく、今を楽しまなければと思っても、大人になった今、甘えることができるのは結婚する人でもなく、父母しかないんだな。”

 この手紙を書いてから5年がたちました。そして、現実の人生をしっかり吟味できるようになり、彼女は成長しました。次の手紙は10年経って書いたものです。

“今思えば、私は大変皆様にご迷惑をかけました。先生はいつもドンとぶつかっていく私を一生懸命になって受け止めてくださいました。あの時は「ドキッ」とするほどの話でいっぱいでした。首つりをしたり、ベランダから飛び降りようとしたり、車から飛び出ようとして母を苦しめていました。そんなとき先生は私の不安、私のことでの母の気持ち、一心になってくださりありがとうございました。本当にごめんなさい。感謝の気持ちでいっぱいです。あれから10年、今は祖母と生活して今日一日の命の大切さをかみしめています。先生道しるべとなってくださりありがとうございました。”

 それからさらに5年経ち、現在、那美さんは不安のない安寧な生活をしています。振り返ってみると、那美さんは、恋愛妄想で発症し、それが消滅し、現実認識ができるようになって、抑うつや種々な心的反応状態が見られました。そして現実の世界に徐々に溶け込んでいきました。新しい人格をゼロから作り直し、今では以前よりもより深く人生について考えることができるようになりました。現在の那美さんの根底に流れる素晴らしさは、いつも感謝の言葉を忘れないやさしいこころです。そして30歳半ばになっても、純真な心と乙女の羞恥心を持ち続けていることです。彼女はとても純粋で清廉な人だと思います。これからもまだまだ彼女との付き合いは続くとおもいますが、彼女の人生行路を見守るのが私の務めであり、大きな喜びでもあります。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.59 2010 WINTER


 back1.gif (2160 バイト)home1.gif (2186 バイト)