フクロウblog | 大井 玄 先生のコーナー

医療法人和楽会の「フクロウblog」です。治療や講演会などの様々な情報をお届けします。

病(やまい)と 詩(うた)【 51 】― 「 いのち」が私をする ―(ケセラセラvol.97夏)

東京大学 名誉教授 大井玄

 

先日、都立松沢病院の認知症病棟で出口に向かって廊下を歩いていたら、年齢80代に見える女性が出口で心細げに立っている。挨拶し、彼女の名を訊ねると、微笑しているが答えられない。もとより病棟の外に出るのは許されない。彼女を廊下の出口の反対の窓際まで誘導して、別れた。
認知症でも自分の名前が出てこないほど言語能力が衰えるのは、相当進行しているのであって、通常、認知能力測定スケールで重度に落ちている方でも、自分の名前は言える。

100歳を過ぎ、自分の名も出なくなり、子供の顔も見分けられなくなった方がおられた。介護が良いせいか、穏やかに笑みを浮かべておられた。仏様のようだと感じたものである。

なぜ仏様なのか。それは、彼女には私たちが常に持っている、「私が、私が」というエゴイスティックな自我感覚がないように見えたからであろうか。唯識の深層心理学ではこの自我感覚をマナ識と呼んだ。

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病(やまい)と 詩(うた)【50】― 精神病院と身体拘束 ―(ケセラセラvol.96春)

東京大学 名誉教授 大井玄

 

先日、中学時代からの友人から電話があった。去年12月、日中歩いているとふらふらしてきたので道端にしゃがんでしまった。通行人が救急車を呼んでくれ、1週間入院していたという。
病院は満員で、廊下のように見える大部屋に収容され拘束された。排便と食事のときは拘束を解かれたが、医師は彼のところに来なかったという。検査は採血だけだった。最後の2日は個室に入れられた。
病院の名を聞いたが覚えていないという。彼の認知能力、特に記憶と場所についての見当識がやや低下しているのは、短い会話からだけでも察せられた。病院は、認知症高齢者が徘徊中に倒れたと判断した可能性がある。だが彼の体験が非常に不快であったのは確かだった。

問題は、なぜ病院が有無を言わさず身体拘束をしたのかである。彼は無口でおとなしく、大酒を飲んで騒ぐこともない男である。
私は都立松沢病院の認知症病棟に毎週1回通って20年ほどになるが、この病棟での身体拘束の事例を見た記憶はない。

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病(やまい)と 詩(うた)【49】ー歴史の動きを観る感覚 ー(ケセラセラ vol.95 冬)

東京大学 名誉教授 大井玄

 

学生時代から政治についての関心が薄かったのに、人生の最終期になってアメリカの政治動向に注意が向くようになった。
ドナルド・トランプ大統領は、自分の嘘を絶対に嘘と認めない点で認知症高齢者の被害妄想に共通する性質を示す。これが認知症高齢者と親しく付き合うわたしを惹きつけた一因だろう。

大統領として彼はいくつかの注目すべき政策決定をしてきた。

第一に、「地球温暖化は中国の策謀である」と言って気候変動に関するパリ協定から撤退し、温暖化ガスを垂れ流す石炭石油産業へサービスを行った。今夏、歴史的な酷暑と干ばつに悩まされたスウェーデンでは、彼に対する評価は最低であるのを観た。
異状気象は全地球的に起こっている。科学者たちはそれが地球温暖化の影響であることに確信を強めている。海水温が高まり大気中に水分が蒸発する量が増えた結果、巨大な台風、豪雨、洪水、土砂崩れなどの惨事が各地で起こっている。同時に地域により乾燥化も進行するのが特徴だ。
イタリアのべニスでは、サンマルコ寺院前の広場が水浸しになるばかりではなく、数多くのレストランの床上浸水が起こった。日本では西日本を中心に広い地域を襲った「平成30年7月豪雨」による死者は200人を超えた。カルフォルニアでは干ばつで史上最悪の森林火災が起こり、火炎はパラダイス地区の2万棟近い家屋を呑み込んだ。
今回アメリカで発表された気候変動の将来予測によると、ここ数十年の間にアメリカの経済は10%縮小するという。トランプ氏はそれにもめげない、その予測を信用しないと言っている。 続きを読む


病(やまい)と詩(うた)【48】ー老耄という適応ー (ケセラセラvol.94 秋)

東京大学 名誉教授 大井玄

 

「人生百年」という言葉が聞かれるようになった。私の記憶では、つい最近まで「人生五十年」といわれたものである。

「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」織田信長が本能寺で亡くなったときは47歳であった。日本人の寿命は古代から中世、近世にいたるまで30~40代だとされている。
その平均寿命が初めて50年を超えたのは、1947年で52歳だった。それが、あれよあれよという間に延び てきて、現在では男が83歳、女は87歳という。
戦争による死亡や餓死がなくなった。乳児死亡は減少し、コレラ、赤痢、チフスなどの急性感染症は制御された。亡国病といわれた結核にも対応できるようになった。
悪性新生物でも、小児白血病は大半が寛解あるいは治っている。私が医学生であったころ、肝臓がんで1年生きる 人は少なかったのに、現在は10年生きる人がざらである。
平和が続き、医療技術が発達し、予防医学的システムが 社会に行き渡るようになった結果が、先進国に現れた超高齢社会である。

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病(やまい)と詩(うた)【47】ー麻薬と絶望死ー(ケセラセラvol.93 夏)

東京大学 名誉教授 大井 玄

 

ドナルド・トランプ大統領は、予期されたように、テレビ・ショーの司会者らしい派手なパフォーマンスを政治・外交・経済の面で繰り広げている。
しかし、社会の健康に関心を抱く医師の視点からは、トランプ氏自身が、病むアメリカ社会の「症状」に見える。それを現す社会の基層に流れる生と死にかかわる現象に目を向けざるをえない。

その顕著な一例がオピオイド系鎮痛剤摂取による死亡の急激な増加であろう。この現象は、後述するアメリカ白人の「生存戦略意識」に関係するように見えてならない。
世界で臨床医にひろく読まれるニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン誌は、この4月、オピオイド系鎮痛剤による死亡者数が1999年から2015年にかけてアメリカでは約3倍に急上昇していると報じた。
2016年だけでも、オピオイド系鎮痛剤の過剰摂取による死亡は64,000件に上ったということから、疫病の大流行をおもわせる。この数字はべトナム戦争を通じた米軍兵士の戦死者数を超えるのだ! 続きを読む