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故人老いず

今年も友人たちの訃報が相次いだ。医学部の同級生の二割以上は鬼籍に入ってしまった。彼らを思うとき、過ぎ去った夏の蒼天とその高みに登りゆく入道雲が念頭に浮かんでくる。

医学部に進んだとき、初対面であるのにぼくを「ゲン」と呼び捨てにする男がいた。その訳はすぐ判った。「お、おれ、ゲンの方が呼びやすいんだ」。山口宣生は痩せてメガネをかけマハトマ・ガンジーそっくりだが、目はいたずらっぽく笑っていた。どもるからか、彼の話はながながと論理を展開させるよりも、短く核心をついた話し方だった。 

当時、日米安全保障条約をめぐって騒然とした社会情勢だったが、医学部ではノンポリ学生がほとんどだった。わが青春の血気は、アルバイトとサークル活動と勉学とに、急坂を駆け降りるような勾配を描いて向けられていた。教師の視点からいうと、教室には姿を見せないが、最低の合格点で進級していく不思議な学生の一人だった。

医学部の運動のサークルにはボート部を筆頭に硬式と軟式テニス部、山岳部、空手部などがひしめいていたが、水泳部とサッカー部がなかった。こちらは中学高校とちょっぴり泳ぎ、ちょっぴり球を蹴っていたので、泳げる者、蹴ったことのある連中と語らい、サッカー部と水泳部を同時に立ち上げた。というのは、サッカーの11人を確保するためには、泳げる者は蹴る者にならなければ、旧軍隊用語(余も、はや考古学的存在だ)で「員数を合わせる」ことができないのだった。

山口はすでに山岳部に在籍していたのに両方の部に入ってくれた。しかも誠実な部員だった。だれでも陸か水か得手不得手がある。彼は泳げるが、何か誤って水に落ちた動物が必死に岸辺に向かおうともがいている感じの泳ぎ方で、熱心に練習するのに進歩らしい進歩は見られなかった。東日本医科大学の大会予選でもビリを争った。

プールから 最後にあがる 君なりき

しかし陸では彼はカモシカのように俊足だった。新設のサッカー部は、常に人数上のピンチが内在し、練習もままならず、連戦連敗に近い戦績をのこした。緒戦の横浜市立大学医学部とは引き分けた。技術的に相手は未熟、こちらも未熟。パスは通らずシュートはヘロヘロ。ボールを追って雑魚が群れる様子は、今なら小学生にだってバカにされるだろう。ぼくができるのは猪突的直進をくりかえすことのみ。鈍足ながら馬力があるので、うまく当たると敵に押しこまれていたわが陣からボールをクリアするのだった。

とことん下手な試合では、ボールの行方がだれにもわからない。グランドの向こうサイドでは敵味方入り乱れて競り合っているかと思うと、突然、ボールがこちらに向けて飛んでくる。ヘディングではブロックできない。ぼくは憤怒したように球を追う。そばの敵も追走する。しかしボールへのつめは両者鈍い。その瞬間、だれかが疾風のように二人を抜いていく。山口だ!一瞬、安堵を感ずる。敵の足は宙を切る。空振りだ!敵は山口に迫る。こちらはそれを妨げんと走る。間一髪、山口が再度蹴ったボールは処女のごとくおずおず、しかしわれわれの及ばぬスピードでグランド中央に帰っていく。ぼくは立ち止まって肩で息をする。山口の姿は次なる場所へと移っている。こんなシーンは試合ごとにくりかえされた。彼は俊足でひやひやさせるキッカーであった。

この初試合終了と同時に、ぼくは歩けなくなった。激しい運動の最中に死ぬと、乳酸の筋肉内蓄積はただちに死後硬直を起こす。戦前戦中教育をうけた高齢者なら、木口小平が進軍ラッパを口に当てたまま戦死したのを思い出すだろう。近年では渡辺淳一の『失楽園』の主人公たちが交合したまま硬直していたのを連想するかもしれない。ぼくの脚は生前硬直をおこし、グランド際で立ったまま動けなくなった。練習をさぼった罰である。グランドにはもう敵味方の姿は見えない。呆然と夏空を見上げていたら、スタスタと足音がして「ゲン、どうしたよ」。山口が様子を見に戻ってきてくれたのだった。

炎天に まろびボールを 追いし友

 

山口は卒業後、水泳もサッカーもやることはなかったが山へ登るのは止めなかった。分子生物学でもがんウィルスという競争のもっとも熾烈な分野で、後世に残る研究成果をいくつも上げた。環境研究の実験方法で彼に知恵を借りに行くと、いつもジーンズで腰に手拭いをぶら下げた姿で研究室にいた。それは早くして早大教授に成ってからも変わらなかった。

山への情熱は最後まで持ちつづけた。息子が同行すると、もうついて行くのが大変だと嬉しそうにぼやいた。「お互いにオジンからオジイになりつつあるか」とオチがついたが、彼はいつまでたっても若く見えた。経験浅い若い人たちと行くスキーや登山では、学生時代と同様縁の下の力持ちをしていたのだ。こちらは体力気力の衰えを気にしていたから、彼の依然としてタフな体力を羨むとともに、無理しているのではないかと懸念した。一九九六年春、彼の雪崩による訃報が入ったとき、形容しがたい喪失感とともに、心の片隅で、山が彼にとって何であったか判ったような気もした。

白銀の 山の彼方の ふるさとへ

山口のガンジーが微笑んでいるような顔はいつまでも若い。

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