フクロウblog | 不安のない生活(22)私の靴は30年余クラークス

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不安のない生活(22)私の靴は30年余クラークス

医療法人 和楽会 理事長 貝谷久宣

今でこそ精神医学の診断は、研修医にもわかり易い診断基準を示したWHOによる「ICD ?10精神及び行動の障害」と米国精神医学会による「DSM ?5精神疾患の分類と診断の手引き」がありますが、40数年前にはそれこそ精神医学の診断は職人仕事の様なものでした。教授や先輩の指導を受け患者さんの陳述内容を分析理解し、または長らく経過を見て診断をつけるといったことが普通でした。また、他の臨床科からよく精神科が嘲笑されたことは、症例検討会で多数決により診断を決めるという慣習でした。そのような状況の中でWHOのICD(疾病国際分類)に沿った問診票ができたことは若い精神科医にとっては大変魅力的なことでした。この問診手順を当時、WHOの日本における精神医学研究拠点になった長崎大学の中根先生のグループが翻訳されていました。PSE(現在症検査手順)と呼称していました。ドイツ留学から帰り間もなく講師に昇任した当時の筆者は、新しい精神医学を開拓すべく情熱に燃えており、何とかこの新しい診断メソッドをものにできないかと腐心しました。決心の末、この本の著者の一人であった英国ノッティンガム大学のJohnE.Cooper教授に直接手紙を書きました。そうしたらこの高名な教授から、日本へ診察法を教えに来てくれるという返事が届きました。この快報に仰天し、受け入れ準備に大わらわの状態となりました。クーパー教授は大型コンピューター用の直径70㎝ほどもあるリールを以て来日しました。これはPSEのコンピューター診断のためのソフトでした。5日間のPSE講習会は私の研究グループの数名と他大学の研究者数名で受けました。クーパー教授はそれまでにも世界中の数多くの国々で指導されたとみえ、大変手際よく指導をされました。患者さんを前にしたPSEの問診を付きっ切りで指導してくれました。日本語は理解されていなくてもその場の雰囲気で事細かに教え導いてくれました。クーパー教授の講習で今でも忘れないことがあります。それはなかなか話してくれない患者さんは、一旦診察を打ち切り、少し時間をおいて再度入室してもらうというテクニックです。短時間の間隔でも2回目に顔を合わせた時のほうが緊張感は和らぎ、患者さんはずっと話しやすくなるというのです。これは人情をよく知った面接法であると今でも感心します。この講習を受けてから私は俄然臨床診断に自信を持てるようになりました。しかし、どんな患者が来ても全く不安にならなくなったのは医者になってから20年ほど過ぎた頃でしょうか。他科よりも精神科の診断は決定的な客観的所見が少ないのでやはりより多くの経験が必要だと考えられます。卒業して10年未満で精神科を開業する人もいますが、その度胸に唖然たる思いを隠せません。

それから数年して私はヨーロッパの学会に出席する際、クーパー教授にノッティンガム大学を訪問したい旨を伝え、快く迎えていただきました。週末で大学病院は休みでしたが、教授自ら病棟を案内してくださり、イギリスの精神医療の特徴を聞かせていただきました。当時、日本がまだこの分野では後進国であるとしみじみ感じたことでした。

有難いことに教授の自宅に泊めていただき、奥様は留守で中学生の息子さんだけで気楽に過ごさせていただきました。英語ができるということはBBC放送を完全に理解できることだと言われ一瞬ひるみました。しかし、釣りの話やらWHOの仕事で世界中に出張したよもやま話を聞かされ楽しい夕べを過ごしました。この夜から物静かだったクーパー教授の人柄に大変好感を持つようになりました。クーパー教授は身長180㎝ 以上あるハンサムな典型的な英国紳士で、大きな靴を履き大股で歩く姿は颯爽としていました。翌日近くの池に二人で散歩に行きました。その時彼が履いていたのがクラークスの靴です。彼は丈夫で長持ちすると言ってその靴を自慢しました。それからある日クラークスの靴を買う機会に恵まれ、甲高の私の足に幅広のクラークスの靴は心地よくフィットしました。Naturalという品番は履けば履くほど足になじんでくるのです。それ以来ほとんど毎日クラークスを履き、英国の思い出を足元に忍ばせながら精進させてもらっています。