不安の力(W)

― 宮本輝の場合 ―

医療法人 和楽会 横浜クリニック院長

山田 和夫

 宮本輝氏(以下敬称略)は芥川賞作品「蛍川」に始まり、数々の名作を生み出している現代日本を代表する小説家である。その宮本が作家になった背景・誘引に不安障害・パニック障害があった。

 宮本は昭和22年3月6日、神戸市弓木町に父・宮本熊市、母・雪恵の長男として生まれている。当時、父親は自動車部品を扱う企業の経営者だった。昭和27年大阪中之島に転居、キリスト教系の幼稚園に入園するもシスターに左利きを矯正された際、顔が左に向いたままの状態(頚部ジストニア)を起こしてしまう。救急病院等にかかるも、症状は改善しなかった。ある担当医が「矯正が原因ではないか」と言ったため、退園した所、確かに症状は消え、顔は依然同様前を向けるようになったという。幼少時より、ストレスに対して身体反応をおこし易い子だった。

 その後、歓楽街のど真ん中にある大阪市立曽根崎小学校に入学するも、父親の事業の失敗等で一時父親の妹宅に預けられたりする。貧困の渦中の中、父親の女性問題、両親の喧嘩、憎み合い、その結果、母親のアルコール依存症更には自殺未遂と、嵐のような機能不全家族の中で育つ。宮本輝は、当然の如く社会・家族不安に陥り、内にこもりがちになり、社会・家庭内逃避の手段として押入れの中で耳を塞ぐようにして読書を始めるようになる。暗闇の中で読書と物語の世界の中に入り込む事によって、辛い現実から逃避することができた。読書の中に生きる道筋を見出した。この時に読んだ井上靖の『あすなろ物語』の感動が、更に読書熱、空想に拍車をかけた。中学、高校時代と押入れの中の読書は続き、山本周五郎『青べか物語』、ファーブル『昆虫記』、コンラッド『青春』等に大きな影響を受ける。大学受験に失敗、浪人生活に入るも中之島図書館に通い詰めるようになり、ロシア文学、フランス文学に熱中する。

 追手門学院大学文学部に入学するも、家庭は貧困の中にあり、アルバイトの収入で授業料を支払った。道路工事、バーテン、ウエイター、ホテルのボーイ、中央卸売市場での荷役等、いろいろな仕事に従事した。しかしこれが現実社会の中で蠢く人間観察にも繋がった。

 当時父親は事業に失敗し、家には全く帰らず、愛人(35歳)宅に入り浸りであった。程なくして脳梗塞を起こし倒れ、半身不随でありながら暴れ狂い精神病院の閉鎖病棟の中で狂死したという。『血と骨』にあるような、大阪男・父親の壮絶な死であった。父親の残した多大な借金の取り立てから逃げるようにして母親と一緒に転居するも、隠れるような家には寄り付かず、道頓堀界隈をふらつき、酒と博打に明け暮れる日々を送るようになった。やはり、暗く壮絶な学生時代で、絶えず重い疲労感を抱えていたと言う。それでも何とか大学は卒業し、この大学生活が後に『青が散る』という作品になり、切ない道頓堀川での生活が『泥の河』という名品に昇華されていった。『泥の河』は道頓堀川に住む貧しい少年と少女の切ない淡い恋愛感情を、暗く澱んだ川に映し出されるように、日本人の昔からの悲しみ、情愛が表出され、大変に美しい小説となっていて、更に小栗康平監督のもと映画化され、モスクワ映画祭で銀賞を受賞する事になる。日本人のもつ悲哀感が美的に表現され、世界的に多くの人々を感動させた。

 この時点ではまだ小説は書き出していない。大学卒業後、サンケイ広告社に入社。コピーライターとして仕事をするようになる。しかし、競馬に熱中し、競馬必勝法なるものを考案、「黄金クラブ」を設立し、危うくサラ金地獄に陥りそうになる。このままいくと父親と同様に破滅的な人生に突き進んで行きそうであったが、これを救うのがパニック障害であった。24歳時、このような危うい社会人生活を送っていた時、電車の中で眩暈と激しい動悸、即ちパニック発作を起こす。「それは突然来ました。電車の中で。休みの日で、友達と京都競馬場に行く約束をしてね。競馬場の電車に乗って、座席に座った。すると何だかボーっと、地面に吸い込まれていくみたいな、眩暈っていうのかな、何だか嫌ぁな感じになって…。あれ?今日、変やな、って思ったんよね。そしたら突然、ドキドキドキッと来たんや。それと『俺、死ぬんと違うんかな』っていう物凄い恐怖感が来て、そしたらますます動悸が激しくなった。そんなん生まれて初めてやったし、その恐怖感がずっと取れへんのや、もう競馬なんかする気にもならへん。四コーナーの隅っこの芝生に座って、ビールでも飲んだら治るかなと思って飲んだけど、ますます心臓はドキドキしてくる。で、「調子悪いから帰る」って、友達おいて…。電車ん中でまたなるんです。這々の体で家に帰った。その時はまあ、仕事が凄く忙しかったからな、残業も続いていたし、体調が悪くて低血圧になったのか、高血圧になったのか、それとも心臓が悪いのか、いろいろ考えた。何日か過ぎて、また会社行く電車中でなってね。これは本当におかしいと思って、そう思いながらも、まだ病院には行かなかったんや。サラリーマンやから、昼間昼食で外に出るでしょ?そしたら今度はラーメン屋に入ってもなるし、定食屋に入ってお昼ご飯食べてても発作が起こるし…。これは間違いなく変だと思ったのは、まだ結婚前の家内と映画の『ゴッドファーザー』を観に行った時、アル・パチーノが父親の仇打ちで警官を殺す場面があるよね。前もって友達がレストランのトイレの水槽の中に拳銃を隠しとくの。かなりドキドキする場面やろ?その時心臓がタタタタタ…と。普通に映画を観てなるドキドキと違うねん。本当に、もう、『もう死ぬわ、これ』っていう…。だから僕だけ客席を出て、トイレに暫く座っとったんよ。どうしても治まらへんねん。その翌日に病院に行ったんです。心電図を取ったり、いろんな検査をやったけど、何もないから医者は『まあ、あなたはこう…非常に自律神経が、子供の時から乱れ易いタイプだったんじゃないかな』と。『今までこんな事になったの初めてなんですよ。25年間生きてきて、一度もなかった。どうしてですか?』と訊いたら、『それは若さっていうものもあるけれども、やっぱりいろんな仕事のストレスというのが、社会人になってから重なってきたんやないかな』と。

 今思えば、幼稚園の時に首が回らなくなってるし、その兆候はあったんやね。その時にもらった薬は精神安定剤みたいなやつ、そやけどあんまり効かんかったな。」

〔宮本輝のパニック障害の方へのアドバイス〕

 「生きている限りストレスの排除なんて不可能。そういう時はまず、腕の良い専門医に行きなさい。難しいやけどね。腕が良いという評判の神経クリニックとか精神科にはものすごい数の患者さんが来るから予約一杯でしょ?ほんと3時間待ちの3分診療やね。とはいえ閑古鳥が鳴いているような病院やと、また不安やしな。いずれにしてもパニック障害っていうのは病気として確立されてきたからね。何にも無いのに死にそうな動悸がしたり、不安感に襲われたり、ちょっとでも苦しい思いがしてきたら、ためらわず専門医に行くべきです。」(宮本輝監修「宮本輝の本〜記憶の森〜」(宝島社:2005、16頁より引用)

 このように、宮本輝は典型的な空間恐怖を伴うパニック障害を、サラリーマンになったばかりの24歳に発症するわけです。その後毎日パニック発作に襲われ、死の恐怖の中に陥ります。何とか耐えて仕事をしていましたが、28歳時その恐怖が極限状況になったため会社を退職し、家に引き篭もる事になります。家に引き篭もりながら出来る仕事が、好きな小説を書くことになったわけです。既に中学生頃より、社会不安のために押入れに篭もり空想の小説世界に浸る習性がありました。それは多くの物語を脳内に醸成し、波乱万丈の極限的生活が人生を深く見つめさせ、小説を作り出す土台になったと思います。そしてパニック障害です。会社をやめ自宅に篭もってできる小説家の道へ引っ張り込みます。小説を書く事は、現実的不安を昇華することになり、自身の癒し効果があります。これはまさに不安の力です。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.44 2006 SPRING