不安の力(Y)

― 中山和彦教授の場合 ―

医療法人 和楽会 横浜クリニック院長

山田 和夫

 不安の力の第1回に書いた人物が東京慈恵会医科大学精神科の初代教授・森田正馬先生だった。中山和彦教授はその東京慈恵会医科大学精神科の現教授である。精神薬理学が専門で時々関連の学会でお会いする事があった。いつもスーツを着用されていて落ち着いた物腰の先生だった。初めて直接お話したのは今年山口で開催された第13回多文化間精神医学会の講師控え室でであった。私の事も知っていて下さり、すぐに打ち解けて話をすることができた。中山教授はランチョンセミナーの講師として招待されて来られていたのである。講演名は「中原中也の千葉寺雑記、療養日誌にみる森田療法」であった。私も学会が開催される土地に生まれた人物について考えるのが好きだが、中原中也は山口を代表する詩人である。中也は、山口市内に大きな湯田町という温泉街があり、そこの裕福な内科医院に生まれた。何不自由なく育ったが、苦悩があり、不安がありそのため千葉寺に入寮し、森田療法を受けた。苦悩・不安・寂しさを詩って詩人になった。中也の寂しさは人々の魂に響く。精神薬理が専門の中山教授が「中原中也」「森田療法」の話しをされるのは少し意外な気がした。

 その中山教授が『こころの科学』(日本評論社)の7月号に特集「不安とむきあう」を編集されていた。中山教授がこれまであまり不安障害については書かれていなかったので、これもまた少し意外な気がした。特集の一番最初が中山教授自身による「不安と出会うー不安へのナビゲーションー」という論文であった。こういった場合は大抵編集者による総説的なものが提示されているのが常で、そのような論文と思って読み出した。数行読み出したら小説を読むように引き込まれ、あっという間に読み終えてしまった。そして大きな衝撃を受けた。これは中山教授自身が小さい頃より現在まで有している不安障害について赤裸々に記述した告白文と、精神科医としての客観的な分析が折り重なってまとめられた論文であった。教授がここまで告白してしまって良いのだろうかとこちらが不安になった。

 中山教授の人生にずっと付きまとってきた不安障害とその分析について引用しながらまとめておきたい。不安との最初の出会いは「コーヒー」であった。

 「1.不安と出会う:とても豪華な家に父親と行った時の記憶である。その家はシンデレラ城のようだった。金色の縁取りのあるコーヒーカップを見た。その中にはコーヒーが炒れてある。初めてコーヒーを飲んだのはその時だった。多分五歳の時である。味は覚えていない。色はコールタールのように黒かった。その場面を夢幻状態のように覚えている。無性に「不安」だった。その時から不安を感じるようになった。幼稚園に通う途中も不安だった。一人でバスに乗った時は、永遠にうちに帰れないと思った。祖母の家から帰る時、真っ直ぐ歩けば自宅があることはわかっていたのに、なぜか歩いていくうちに違う道に迷い込んでいるように思った。」(中略)「ある時珍しく友達の家に泊まることになった。その家の食事も布団も家の人も、何か現実感が無く息苦しかった。不安とともに緊張感を感じるようになった。ゆっくり眠れなかった。その頃から父親と同じように、喋ることをしなくなった。夜が怖い。とくに月末の夜は怖い。みんななかなか寝ない。ひとりで二階で寝るのは自分には難しい。天井が迫ってくる。柱はビシッ、ギシッと生きている。やっと母親が二階にあがってくる。安堵は生暖かい。このヌクモリは何だ。天井や柱はおとなしくなった。」

 「[解説1]不安の種火:五歳から幼稚園時代に初めて不安という不快で恐怖に近い気分を体験している。そのために神経質な性格が形成された。選択的寡黙症に近い状態に陥っている。不安だけでなく、緊張と不眠というそれまで体験したことのない身体感覚も知ることになった。このことはその後の成長過程にも大きく影響を与えることになった。この段階ですでに全般性不安障害、社会恐怖、広場恐怖の基礎が形成され始めている。」

 「2.成長する不安:小学校に入学の時、初めて皮のような硬いベルトをズボンに通した。具合が悪い。何度も締め直してしまう。(中略)何か行動をする時には、腰のベルトのあたっている感じがとても気になった。何度も締め直しをした。集中できない。ベルトの穴のまわりの色が変わった。(中略)ある日バイオリンの先生が、子ども用のバイオリンを持って家にやってきた。それを見た時「ゴキブリのお化け」だと思った。怖くて家中を泣きながら逃げまわった。「そんなにいやなら、しょうがない」と先生は帰っていった。昆虫、動物は苦手だ。家に蜘蛛やムカデ、ヤモリがよく出る。夜になると天井裏ではネズミの運動会。犬は好きだったが姉にだけなつく犬だ。犬の遠吠えは悲しい。猫は問題外。(中略)ある日母親の目を盗んで、紙芝居を見、水あめを舐めた。その後お好み焼きを食べた。おなかが痛くなった。これで死ぬのかもしれない。何度か同じことをした。腹痛はいつもではなかった。でも痛くなりやすい。やっぱり汚いのだ。汚いと病気になる。」

 「[解説2]心気のはじまり−母親のかかわり:身体違和感を成長とともに感じるようになっている。不完全恐怖としての不安が浸みつき始めた時期である。心気は森田正馬も述べているように、不安障害の基礎である。この時期動物恐怖症も始まっている。ここまでで「恐怖性不安障害」の基礎ができた。また縁起を担ぐべく強迫儀式が目覚め始めているのもこの時期である。そこには母親の神経質さ、こだわりによる操作が加わっている。母子関係の問題が始まる。母親をいやがることはできない。断じてしてはいけないことなのである。しかし心身は勝手に変化する。身体がついていけないのだ。身体に意識が集中する。心気傾向は強まる一方である。疾病恐怖と不潔恐怖が成立してきている。

 「3.自立する不安:(中略)孤独。一人でいる不安。自分のうち、家、家族以外の異文化体験だった。こころ細い。このままでは大人になれない。そんな時、父親が突然死亡した。中学二年生だ。一月三日だった。三という数字が気になりだした。(中略)とにかく父親は急に死んだ。三という数字は恐怖と不安の象徴となった。電話番号の「940」も「苦しんで死んでゼロになる」とこじつけ、怖い数字となった。結局一、三、四、九、0は使えない。二と五と六と七と八が安心の数字である。」

 「[解説3]強迫は不安を病的に加工する:父親の急死は根底からさらに深い不安を惹起してしまった。急性ストレス体験とPTSDといえる。その結果、数字に関する強迫、縁起をかつぐ強迫儀式行為につながった。この時期に強迫性障害の基礎が十分できたようである。これは心配性の枠を超えそうになっている。幸いなことに日常生活に支障をきたすまでにはいっていない。(中略)

 「[解説5]不安の完成:小学生時代に疾病恐怖という不安を得ていたが、中学時代に父親の急死という身近な体験から、死ぬという恐怖、不安はさらに現実的な問題としてのしかかってきた。それは単に「死の恐怖」のみではない。このままでは死ねない。死んでたまるものか。「生きたい」という森田正馬の主張した、生への強すぎる願望の現われであった。ここに至って「死の恐怖と生への強い願望」という人間としての健康な正常不安の構造ができあがった。」(中略)

 「7.発作の不安:上京した。田舎ものは歩くのが遅い。喋るのも遅い。電車が満員なんて意味がわからない。もう乗れないのに、十人は乗ってくる。自由なはずの東京生活。至るところに自由のきかない空間がある。自由でないこと。これはまさに恐怖だ。満員電車で真ん中に追いやられると、降りたいところで降りられない。それはまだいい。おなかが痛くなったらどうしよう。口から心臓が飛びでそう。息が空気が肺にはいらない。首から肩、上半身が硬くこわばる。トイレに行きたくなる。気分が悪くなる。恥ずかしい。やっと次の駅に着いた。また同じようになったらどうしよう。そうだ、満員電車に乗らなければいいのだ。乗る時は出入口近くに立つこと。各駅のトイレは把握しておこう、と思うがいつも満員電車では、力尽きて真ん中に追いやられる。方向音痴でトイレの場所は覚えられない。でもなんとかなる。死にそうだけど死なない。」

 「[解説7]パニックは大人の不安:パニック発作はまだ体験していなかった。都会の生活で体験することになった。パニックはある程度自律神経や医学的知識を得た大人になってからの不安の表現のように思う。思春期終焉の時期の仕上げとして、大人の不安として洗礼をうけた。その背景に「恥ずかしさ」という感情を始末しきれないでいることがある。人前で嘔吐したり、倒れたりできない。格好悪い生きざまはみせられないというものである。」(中略)

 「[解説9]またかの不安:相変わらず不合理な不安に悩まされている。しかしどうしようもない不安も、「しょうがねーな」というような江戸弁まじりで喋ってしまいそうな、いわば滑稽なものとして感じている。不安に向きあう勇気が芽生えている。」


結論
@思春期終了時までに、種々の不安を一様に体験する.
A不安は成長過程で形を変えて襲ってくる.
B幼少期では母子(親子)関係が不安を加工する.
C自已同一性の完成、思春期成立、自立への挑戦の過程で、防衛機制を体得しながら不安の減衰、増強を客観的に認識できるようになる。
D不安が限局して突出すると、病的不安となる。
E強すぎる「差恥心」よりよく生きたいという強すぎる「生への欲望」、架空の「自己像の理想化」が要注意である.
F思春期以降の不安はそれまでに体験した不安の呼び戻し現象である。


 不安のプロセスが赤裸々に正確に表現され、客観的に分析されている。そしてその一筋縄ではいかない不安との付き合い方のコツがユーモラスに表現されている。不安障害に悩んでいる患者さんにその解決のコツが示唆されている。これ以上注釈を書くのは畏れ多いので止めます。

 不安があったからこそ中山和彦先生は精神科医になり教授になったと思う。不安の力である。中山教授は来年の第14回多文化間精神医学会を主催される。先日メールでシンポジウムの座長の依頼を受けた。有難くお受けした。中山教授は森田正馬を継いで真に不安障害の治療者になられると思う。来年の多文化間精神医学会を楽しみにしている。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.46 2006 AUTUMN