不安・うつの力(]T)

二人称の死の悲しみから

医療法人 和楽会 横浜クリニック院長

山田 和夫

 二人称の死とは家族など親しい者の死である。「二人称の死」という言葉は古くから、宗教学、哲学に登場していたが日本で広く認知されるようになったのは、ノンフィクション作家柳田邦男が次男の自死を看取った記録『犠牲 わが息子・脳死の11日』以来である。柳田はこの著書の中で二人称の死を次のように規定している。「『二人称(あなた)の死』は、連れ合い、親子、兄弟姉妹、恋人の死である。人生と生活を分かち合った肉親あるいは、恋人が死にゆくとき、どのように対応するかという、辛くきびしい試練に直面することになる。」柳田自身、次男の脳死を看取って「脳死」「臓器移植」等の現代医療、生命倫理問題に対して様々な提言をしていくようになる。二人称の死を体験した人は大きな悲しみの中に陥る。暫くは誰もがうつ状態の中にある。フロイトは喪失体験から立ち直る時、何らかのモーニングワーク(喪の作業)が行われると論考している。悲しみを、例えば言語化する事によって、「悲しみ」を身体から切り離し「思い出」化していくような作業である。芸術家であればそれが優れた芸術作品にもなる。人生が変わっていく場合もある。深い悲しみから人生の深淵を知り、人生の無常を悟り、詩人、求道者、哲学者、宗教家になっていく人もいる。道元は八歳の時に母を亡くし、世の無常を感じ十四歳で出家し、偉大な導師となる。ダンテやゲーテの文学も二人称の死から生まれた。

 宮沢賢治の最愛の妹トシが肺結核で亡くなったのは大正11年11月27日(享年25歳)、雪の降る朝であった。賢治、26歳の時である。詩「永訣の朝」は妹トシが死に行く姿と、悲しみに耐え、必死に看取る賢治の心の叫びを謳い上げた痛切な詩である。この詩を読むと誰もが、賢治の痛切な悲しみが響いて来る。詩の持つ力である。翌年この悲哀から立ち直る過程の中で「春と修羅」が生まれる。悲しみの中で人生の「修羅」場を体験し、その克服していく先に「春」を見た作品である。トシの苦しみ、賢治の悲しみ、苦しみが余す所無く書き込まれている。

 内村鑑三は様々な志しを持って札幌農学校に入学する。入学の頃は「地理学者」を目指していた。実際、33歳の時『地理学考』を出版している。卒業する頃は水産学者を目指すようになる。そのため農務省に勤務し、日本産の魚類目録を作成している。その後、アメリカに渡りキリスト教の慈善家になるため社会施設で看護人として働くようになる。帰国後は教育家になる事を目指し、実際に第一高等中学校などに勤務するが、どこの学校でも問題を起こして長続きできなかった。その後、教育者から社会改良者を志し『万朝報』の記者となる。更に社会改良者から聖書学者となっていく。この変遷を見るだけでも内村は強力型の循環気質である事が判る。鑑三には2人の子供(姉弟)がいた。一人がルツであり、弟が精神医学者になった内村祐之である。その愛娘ルツが1912年1月12日19歳で病死してしまう。その嘆き苦しみの中から神を呪うのではなく、逆に強く信仰の道に入っていくことになる。この死が鑑三の人生を決定してしまう。即ちこの死の以後、真の基督者内村鑑三となっていくわけである。この姉の死と父鑑三の変容は、精神医学者内村祐之にも大きな影響を与えたと思われる。内村祐之はヤスパースの「天才」を訳しているほどの病跡学者である。内村祐之は、鑑三の母親は初老期に精神病症状を発症し最後は精神病院で病死したと記している。更に父鑑三自身が病跡の対象になる人物と指摘し、いつか自分が「内村鑑三の病跡」を書かなければならないだろうとも記している(内村祐之著『わが歩みし精神医学の道』みすず書房、1968)が、「父の性格」という短文が書かれたのみであった。

 西田幾多郎と鈴木大拙は日本を代表する世界的な哲学者と宗教家である。その偉大な二人が同じ年(1870年:明治3年)に同じ石川県で生まれ(西田:石川県河北郡宇ノ気村、鈴木:金沢市本多町)、同じ学校(第四高等中学校予科)の同級生(第一級)として学んでいる。これは歴史上奇跡のような偶然だが、そこには必然性も秘められている。加賀は歴史的に宗教性の高い精神風土である。鈴木大拙は次のように記している。「加賀の者とか北陸の者は昔から宗教心が強いとよくいうが、一向宗なんというような浄土真宗の盛んな本場でもあるし、また禅宗の方では曹洞宗に能登総持寺があるし、越前永平寺があって、禅も盛んなところである。加賀の殿様も代々曹洞宗であったのだから、金沢に曹洞宗の大きな寺がある。大乗寺にしても天徳院にしても立派な大きな寺である。」このような精神風土の中で西田も鈴木も若い頃から、自然によく参禅した。そして明治初期、第四高等中学ができたばかりである。そこに若き西田と鈴木が編入学し机を並べて切磋琢磨する。いやが上でも学問への情熱は高まったと思われる。

 そこに次々と二人に降り掛かる二人称の死がある。鈴木大拙が6歳の時に父良準が54歳で亡くなる。その2年後に次兄・利太郎が11歳で早世した。大拙の母・増はこの二人の死に強い精神的衝撃を受け深いうつ状態を呈したという。その癒しを求めて様々な宗教的行動を取るようになり、自然大拙も母の行動に感化されていった。

 西田幾多郎が記憶にとどめている最初の肉親との死別体験は1883年の次姉・尚のチフスによる病死であった。当時13歳だった幾多郎は4歳年上の聡明な姉の死に大きな衝撃を受けている。幾多郎は生前、家族としては両親を、四人兄弟姉妹のうち三人を、八人の子供のうち五人を亡くしている。中でも次女幽子を6歳で喪った後は深いうつ状態を呈した。死別体験後何度かうつ状態を呈し、いつしか「人生は悲哀である」という彼の哲学的思索において根本となる死生観を形成するようになる。要するに金沢の歴史的宗教風土の中で西田と鈴木は共に二人称の死による深い悲しみの中で、幾多郎は哲学を大拙は禅を究めていくことで、超克していったといえる。

 2007年11月22日朝日新聞朝刊に興味深い記事が掲載されていた。それは見出しに「娘の死を乗り越えた天才江戸時代の数学者・関孝和」とあった。今回、関の新宿にある菩提寺・浄瑠璃時の過去帳が調査され、関の生誕が1640年頃であった事、二人の娘が関の生前に若くして亡くなっていた事が判明した。一人は1686年に10歳前くらいで、もう一人が1698年に20歳前くらいで死去していた。関はその深い悲しみを克服していく中で和数学の研究に没頭していったと言う。来年2008年はその関孝和の没(1708年)後300年になるという。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.51 2008 WINTER