不安・うつの力(
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西田幾多郎と鈴木大拙の場合

医療法人 和楽会 横浜クリニック院長

山田 和夫

 西田幾多郎と鈴木大拙は日本を代表する世界的な哲学者と宗教家である。その偉大な二人が同じ年(1870年:明治3年)に同じ石川県で生まれ(西田:石川県河北郡宇ノ気村、鈴木:金沢市本多町)、同じ学校(第四高等中学校予科)の同級生(第一級)として学んでいる。これは歴史上奇跡のような偶然だが、そこには必然性も秘められている。加賀は歴史的に宗教性の高い精神風土である。鈴木大拙は次のように記している。「加賀の者とか北陸の者は昔から宗教心が強いとよくいうが、一向宗なんというような浄土真宗の盛んな本場でもあるし、また禅宗の方では曹洞宗に能登総持寺があるし、越前永平寺があって、禅も盛んなところである。加賀の殿様も代々曹洞宗であったのだから、金沢に曹洞宗の大きな寺がある。大乗寺にしても天徳院にしても立派な大きな寺である。」このような精神風土の中で西田も鈴木も若い頃から、自然によく参禅した。そして明治初期、第四高等中学ができたばかりである。そこに若き西田と鈴木が編入学し机を並べて切磋琢磨する。いやが上でも学問への情熱は高まったと思われる。

 そこに次々と二人に降り掛かる二人称の死がある。二人称の死とは家族など親しい者の死の事である。「二人称の死」という言葉は古くから、宗教学、哲学に登場していたが、日本で広く認知されるようになったのは、ノンフィクション作家柳田邦男が次男の自死を看取った記録『犠牲わが息子・脳死の11日』以来である。柳田はこの著書の中で二人称の死を次のように規定している。「『二人称(あなた)の死』は、連れ合い、親子、兄弟姉妹、恋人の死である。人生と生活を分かち合った肉親あるいは、恋人が死にゆくとき、どのように対応するかという、辛くきびしい試練に直面することになる。」柳田自身、次男の脳死を看取って「脳死」「臓器移植」等の現代医療、生命倫理問題に対して様々な提言をしていくようになる。二人称の死を体験した人は大きな悲しみの中に陥る。暫くは誰もがうつ状態の中にある。時には江藤淳のように、立ち直る事ができず自死する者もある。フロイトは喪失体験から立ち直る時、何らかのモーニングワーク(喪の作業)が行われると論考している。悲しみを、例えば言語化する事によって、身体から切り離し「思い出」化していくような作業である。天才人であればそれが優れた芸術作品にもなる。人生が変わっていく場合もある。深い悲しみ(うつ)から人生の深淵を知り、人生の無常を悟り、詩人、求道者、哲学者、宗教家になっていく天才人もいる。道元は8歳の時に母を亡くし、世の無常を感じ14歳で出家し、偉大な導師となる。ダ
ンテやゲーテの文学も二人称の死から生まれた。

 鈴木大拙が6歳の時に父良準が54歳で亡くなる。その2年後に次兄・利太郎が11歳で早世した。大拙の母・増はこの二人の死に強い精神的衝撃を受け深いうつ状態を呈したという。その癒しを求めて
様々な宗教的行動を取るようになり、自然大拙も母の行動に感化されていった。

 西田幾多郎が記憶にとどめている最初の肉親との死別体験は1883年の次姉・尚のチフスによる病死であった。当時13歳だった幾多郎は4歳年上の聡明な姉の死に大きな衝撃を受けている。
「余が初めて骨肉の死を実験したのは、余が十三四歳の頃、余が姉の病死せし時であった。余はこの時初めて人間の死がいかに悲しきものなるかを知り、人なき所に至りて独り涙を垂れ幼き心にも、もし余が姉に代わりて死し得るものならばと心から思ったこともあった。今度余の弟の死は余をして、また当時の感を新たにせしめたのである。」
(山本良吉宛手紙)


 幾多郎は生前、家族としては両親を、四人兄弟姉妹のうち三人を、八人の子供のうち五人を亡くしている。中でも次女幽子を6歳で喪った後は深いうつ状態を呈した。
「断腸の思いいまだ全く消えうせないのに、また己が愛児の一人を失うようになった。骨肉の情いづれ疎なるはなけれども、特に親子の情は格別である。余は今度生来いまだかつて知らなかった沈痛な経験を得たのである。」(同手紙)死別体験後何度かうつ状態を呈し、いつしか「人生は悲哀である」という彼の哲学的思索において根本となる死生観を形成するようになる。悲哀後の救いも述べている。「物窮まれば転ず、親が子の死を悲しむというごときやる瀬なき悲哀悔恨は、おのづから人心を転じて、何等かの慰安の道を求めしめるのである。」「深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依する時、後悔の念は転じて懺悔の念となり心は重荷を卸した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる」「人生の悲哀という事実を見つめて行く時、我々に宗教の問題が起こってくる。」その悲嘆体験が「善の研究」の完成に繋がっている。要するに金沢の歴史的宗教風土の中で西田と鈴木は共に二人称の死による深い悲しみ(うつ)の中で、幾多郎は哲学を大拙は禅を究めていくことで、超克していったといえる。

ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.54 2008 AUTUMN