東京大学名誉教授 大井 玄

 思春期から青年期、一番好きな作家は森鴎外だった。「舞姫」、「うたかたの記」、「即興詩人」など浪漫の香りに酔い、「阿部一族」、「興津弥五右衛門の遺書」から伝わる武士の倫理意識には、よく理解できないまましびれた。当時、第一次大戦敗戦の混乱と飢えの記憶は未だ生々しかった。ヨーロッパとて戦乱の荒廃が蔓延していたはずなのに、私の心象世界に映る彼の地は、ポプラ並木が爽やかな風にそよぎ、緑の牧場が緩やかに起伏し、漣の照り返す湖のほとりの館が蒼穹を画す風景画だった。この催眠術を施したのが鴎外である。

 私は「独逸日記」の彼の目を通して「若きヴェルテルの悩み」を読み、独逸ロマン派の作家やヘッセ、カロッサに親しんだ。しかし大日本帝国陸軍の健康を担う軍医としての彼に、学問のうえで直面したのは、私が中年近くになってからだった。

 医学部卒業後、何年かアメリカで臨床医生活をして帰国すると、学園紛争の余燼がくすぶり、弟は半年以上も巣鴨拘置所に勾留されていた。ともあれ、こちらは食べて行かなければならない。病院勤めを欲しない私を拾ってくれたのは、衛生学という社会医学でありながら多分に徽の生えたように響く分野の仕事だった。しかしそれは、90年前、若き軍医森林太郎が志した道である。

 個人の病気・健康を診る臨床医学にたいし、社会医学は、集団や社会の病気・健康を評価し、対策を講ずる。19世紀半ば、開国を強いられた日本は、隣国や欧米の帝国主義的国家と競いながら生き残るには、軍人の健康状態を戦闘できるレベルに維持するのが、絶対の必要条件だった。

 陸軍が嘱望する若き軍医森林太郎は、日清・日露の戦争を控え、兵士の健康を維持する大役を担った。そして当時の軍隊において最大の健康問題が脚気流行である。

 全陸軍の疾病統計調査は明治8年から始まるが、明治9年には兵員千人に対し脚気新患者108人、17年には263人、つまり4人に一人がこの病気にかかっている。そして致死率は約2〜6%だった。しかし、戦時には、これらの数字が跳ね上がる。

 現在、脚気がビタミンB1欠乏症であるのは、中学生でも知る事実。白米にはB1がほとんど含まれない。しかしこの病因の同定までには、膨大な研究努力と脚気犠牲者があった。実は断片的だが、米飯の代わりに麦飯にすると脚気の発生率がはっきり減少するとの報告もあった。海軍では、遠洋航海が脚気流行の機会をつくった。明治15〜16年、ニュージーランド、南米チリ、ハワイを回る271日間の航海で、練習艦龍驤の乗員376名中169名が脚気になり、25名が死ぬという惨事が起こる。兵食は米飯だった。

 海軍医務局長高木兼寛は、明治8〜13年のイギリス留学中、ヨーロッパに脚気がないことを知り、白米を主とする兵食に原因があるのを察する。彼は、まず遠洋航海実験で、蛋白を増やした新糧食により脚気の発生が事実上なくなるのを示した。さらに巧みな政治工作で猛反対を押し切り、明治18年以降、兵食を蛋白の多い麦飯に切り替えた。その結果、海軍での脚気はほぼ根絶する。

 一方、当時の陸軍軍医総監石黒忠恵は、脚気伝染病説を信じていた。彼の信念に理論的根拠を与えたのが、明治18年ライプチヒで陸軍一等軍医森林太郎が書いた論説「日本兵食論大意」である。しかし、古典的名著「脚気の歴史」の著者山下政三によれば、この論説は、彼の師ホフマンらの研究論文と明治15年頃の日本国内論文を「種本」にして書かれた「まったくの机上作」だったという。

 明治21年帰国した森は、講演「非日本食論ハ将二其根拠ヲ失ハントス」で、米を食うのを日本食、パンを食うのを西洋食と定義し、日本食は脂肪、含水炭素、蛋白のいずれにおいても問題なく、西洋食に劣らぬとした。その中で、高木兼寛を「英吉利流の偏屈学者」と呼び、露骨な非難を浴びせている。また、実際に被験者に米食、麦食、洋食を食べさせる比較試験をおこなったが、「カロリー値、蛋白補給能、体内活性度」のすべてで米食が最優秀という結果が得られた。当時、ビタミン欠乏という疾病概念はまだなかった。当然のことながら、この陸軍兵食試験成績は後々まで引用され、陸軍兵食の正当性の根拠として利用された。

 ところが、明治27〜28年の日清戦役では、陸軍の戦死者がわずか977人にたいし、傷病患者約28万人、患者死亡約2万人であり、脚気患者は約4万人という奇妙な現象が起こる。前代未聞の脚気大流行であるのに、陸軍首脳はまだ懲りなかった。海軍には軽症脚気は認められたが重症例の多発はなかった。

 明治37〜38年の日露戦争では、陸軍の戦死者約4万6千人、傷病者35万人であり、そのうち脚気患者25万人という驚くべき数字になる。しかも、戦病死者3万7千人中、脚気による死者が約2万8千名に登った。

 日清・日露戦役での大惨事を起こした陸軍脚気対策に、森林太郎の誤りが深く関っていた事実は、東京大学医学部衛生学教授山本俊一が、1981年初めて、学会誌「公衆衛生」において指摘した。両戦役からすでに一世紀近い月日が経っていた。

 詩集「うた日記」の中の絶唱といってよい「扣鈕」は、日露戦争中に創られた。

 鴎外森林太郎は、「玉と砕けし」兵士「ももちたり(百、千人)」よりもはるか多くが脚気に罹り倒れたことを知っていても、自分の知的誤り・傲慢さが、どんなに大きくそれに寄与していたかに、気づいていなかったろう。

Que Sera Sera VOL.57 2009 SUMMER